里依子の口から小樽という言葉を聞いた瞬間、私の中でそれは伊藤整と激しくつながった。私は里依子にその話をした。そして明日、彼女と一緒に小樽まで行きたいと申し出た。里依子が親戚の家に行っている間私は伊藤整の小説の舞台を訪ねてみたいと思ったのだ。
それはいわば、かかわりない二つの偶然が私の小樽散策を必然たらしめたのであった。これは人のつながりのありふれた形なのだろうか。
思えば昨年の夏、私が初めてこの地を旅し、千歳から札幌までの列車に乗り合わせたのが里依子だった。彼女は私の前で突然サンドイッチを食べ始めた。それがとても無邪気な仕草だったので私は思わず笑い、どちらからともなく会話が始まったのだった。長い休暇が出来たのでふるさとに帰る所だと言って、里依子はニセコの駅で列車を下りて行った。とっぷりと日は暮れていた。それから私たちは互いに手紙で様々な思いを語り合うようになったのだ。
その一方で、互いに地方から出てきて大学で出会った友人がいなかったら、私は今ここにいなかっただろうし、北大の前の小さな居酒屋で小樽の人と出会うこともなかっただろう。男はあたかも伊藤整のように小樽を出て、浪の捨子のように小樽を懐かしんでいる。
小樽と別れ、長い間四国に住み、やがて東京に出て行ったのだと男は自分を語ったのだが、その四国は私の友人のふるさとであることを思い起こさせた。
この居酒屋の中で人のつながりが輪のように広がっていくことに私は言い知れぬ不思議を感じた。
あるいは私が大学で友人を得里依子を知ったことが、この男との偶然を必然に変えたといえるのかも知れない。やがて彼と別れ、二度とふたたび会うこともないであろう必然をも含めて、私は次第に酔って虚ろになっていく頭で考えるのだった。
しかしこの人のつながりは、それからさらに輪を広げることになるのであった。
HPのしてんてん
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