「浄土」苦楽、4枚組作品の3枚目にとりかかった、下絵をキャンバスに描いたところ、このころには、私の心の中には9割の空間が完成してる。私はその空間の住人になってあたりを見回している。遠くを、近くを、様々な風景が浄土に向かって動いて行く。苦楽が色をつくりだしている。
私は描きながら、その先を見つめている。苦楽の次に来る世界、「浄土」本願 の具体的なイメージをつかもうとしている。
苦楽が、自我の思考で動く世界なら、本願は神の思考で動く世界となるだろう。大きな骨組みは見えた。
神の思考とは何か、その答えを深めることが本願に向かう必須の条件になるだろう。
浄光寺が発端になって、神の思考の裾を捕まえた。自分を実験台にしてその思考をためし始めてひと月あまり、随分慣れてきた。不都合は見当たらない。至福が長くとどまるようになった。今までになかったことが起こっているのがわかる。
神の思考は己を否定するのではないかという恐れは、誤解だと分かった。言葉では自我を殺すことで達する思考という表現が核心を得ているのだが、それは決して言葉通りではない。そこには何の不自然も、苦悩もない。失うのではなく、消えるのだ。日焼けした皮膚が剥げ落ちるように自然にそれは起こる。
神の思考を知ったら、己の中の自我の思考を冷静に見つめる第3の眼が出来上がる。それが大きなポイントだ。
相変わらず自我の思考は自分を主張して、苦楽を生み出す。けれどもその様子を見つめる第3の眼がある限り、自我の生み出す苦楽に振り回されることはなくなる。
神の思考は自我を殺すのではない。それは私の実験で実証された。そう言い切っていい。
神の思考は自我を優しく見つめるだけだ。やがて自我は、己自身で成長して真実に気付くときがくる。気付いたら消える。それが自我の思考というものなのだ。
夢から覚める。
自我とは、まさに本性がみている夢という表現が一番近い気がする。
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