頭脳には2回路がある。そう言葉で理解したとき、心のコントロールが可能になった気がした。
ヒトは生まれたとき、思考は未分化のままの神の思考回路だけがあった。ヒトは誰も神として生まれたのだ。
ヒトが言葉を覚え、自我に目覚めると、自我を基準にして世界を認識しはじめる。この認識は急速に成長して心を満たしていく。他人を知り社会を知り、己の立ち位置を理解し、役目を知る。こうしてヒトは人となるのだ。人は第二の思考回路を手に入れる。それが自我の思考と言えるものだ。
自我の思考は鮮烈で、まるで太陽のように輝き、もとからあった神の思考を隠してしまっているというのが今ある人の姿なのだと、私は確信する。
悟りを開いた人は神の思考を手に入れる。
だが手に入れると考えるのは間違いで、実のところ悟りは、自我の思考を消すことで見えてくる神の思考回路を意識的に使うことで達成されるのだ。
様々な発見や発明は一つの直観からやってくることが多い。それらをつかんだ逸話の多くは、風呂に入っているときなど、思考の緊張が解けた一瞬だったことを伝えている。
つまり、光り輝く自我の思考が消えた一瞬、自分の本体である神の思考に気付くのだと思うのだ。
自我の思考は虚構の上に成り立っていて喜怒哀楽が強烈な光を放つ。そして総体的に苦の世界をつくりだす。
神の思考は真実そのものであり、個ではなく全一の宇宙そのものであり、至福がある。
人として大切なことは、この二つの回路の存在を知り、使い分ける知恵を身に着けることではないか。
浄土「苦楽」は私をそんな理解に導いてくれた気がする。
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