心、クオリアの世界
物質の世界は裏切らない
水は100度になったら沸騰し
0度から下がると凍りつく
たとえ90度で沸騰しはじめても
それは気圧との因果関係が
裏切りでないと証明してくれる
しかし心はどうだろう
愛を注げば必ず愛が返ってくるという
そんな法則はどこにもない
裏切りは日常茶飯事
信頼と愛は
それゆえに至極の宝となるのだ
心の世界は
信頼から成り立っている
信頼が揺らげば世界が揺らぐ
信頼を失えば世界を失う
それは法則ではない
信頼だ
信頼すれば心はそこにあり
疑い、自己否定は心を際限なく卑小なものに変えていく
心はどこにあるのか
それは場所ではない
信頼と愛の中にあるそれが心というものだろう
物質は場所
心は愛
心をとことんまで広げてみよう
あなたは
どこまで広い心を実感できるだろうか
どこまで深い心を体験できるだろうか
自分と出来事のあいだ
自分と他人とのあいだ
自分と自分とのあいだ
こんにちは!
☆心はどこにあるのか☆
私の場合でしたら
いつだって唯一無二のこの一瞬
一瞬謳歌
こころは無限
です^よ^
宇宙は心魂宇宙☆
万物を私たちを構成している
素粒子の一粒一粒にも
輝く心魂が籠められている♪
だから赤ちゃんは
あんなに輝いているんだって、
私は感じています。
けれども成長過程、
心魂ともに渦巻きみなぎっている
気の持ちよう気持ちによって、
心持ちの心模様も変化、
喜怒哀楽多種多様の輝きを
放ち始めるのでしょうね。
しかしながら元来わたしたちは、
輝く心魂素粒子空間として誕生
ふたたび宇宙心魂に回帰する
こころだま宇宙波のようですね。
創造過渡期である宇宙に万物に、
少しでも貢献出来ることが、
私たちの幸せではないでしょうか☆
いつだって唯一無二のこの一瞬
一瞬謳歌
こころは無限♪
今日も池上中央公園に寄り道しましたら、
枯れ葉たちがお日様色に輝いて
晩秋光響曲奏でていましたよ
一瞬無限大光響有り難し☆♪
今宵もどうぞ素敵な時をお過ごしくださいませ☆
いつもインスピレーション喚起!
ありがとうございます♪
感謝感激∞8∞
まかこ 拝
追伸
のしてんてんさん!
今日は眼医者さん
これからの点眼1日3回から
2回に減りましたよ。
眼球もなんだか
眼球宇宙を自覚
眼球認識力を深め
眼球深訪を始動!
たのしみで^す^
…若輩ながらまさに”自分の心が迷走中”だったので、ありがたく読ませていただきました。
…前回の記事の中動態とか…相当難しい話題でして…素人(本当笑)は”自然にと言われるほど不自然な感じになる。…でも本物の達人は自然な様を為す事が出来る…。”…まだまだ修行が必要な域かも…。
かなり前の記事ですが”心は合成波”の考えは巧いと想いました!! 一つに見える気持ちの裏には…いろいろな気持ちがいて、みんな合わせて…最後の形になる。
苦悩の波にどんぶらこ、とやり過ごそうにも顔にかかる水に不快感を覚える…まだまだ修行が足らないと思う日々ではあります(汗)
学びとして良い記事に…感謝を!
自分と物とのあいだ
自分と出来事のあいだ
自分と他人とのあいだ
自分と自分とのあいだ
心というものを言い表すとUnknownさんの言葉が一番合うような気がいたします。
あいだには何があるのか、おのずとそこに空間という答えが出てきますね。素晴らしいです。
あと残っているのは
他人と他人のあいだ
他人と物のあいだ
物と物のあいだ
他人と出来事のあいだ
物と出来事のあいだ
出来事と出来事のあいだ
このあいだにあるものは何と呼べばいいのでしょうか。
あいだ・・・間。。。愛だ
眼の術後は順調のようで、お喜び申し上げます。
なんだかまかこさんのコメントを読ませていただいていると、心の歴史をひもといているように思えます。
こんな歴史書を今まで誰が書いたでしょう。読みながら、これ以上ない大きさを感じます。
ありがとうございます。
創造過渡期である宇宙に万物に、
少しでも貢献出来ることが、
私たちの幸せではないでしょうか☆
ありがたく拝受いたしました。
いつもありがとうございます
感謝申し上げま^す^
Unknownさんの言葉を借りれば、
折師さんと愛犬のあいだにあるものを、折師さんはとても真摯に眺めておられました。
これ以上の真実は無いと私は思いました。そこにある、あふれるほどの愛は、他人にしか見えないのですから。
迷走するのもいいのです。
それは折師さんが、「あいだ」を真摯に眺めている証しですから^ね^
自然になるというほど不自然なことは無い。
折師さんのおっしゃる通りです。
でも眺めていたら、「あいだ」=心の動いているのが見えてきます。
愛犬に接した「あいだ」を思い出してください。
それが自然なのです^よ^
自分の身体性は心の母体ですから、それが失われると世界から己の領域を分け取る自分というものはなくなりますし、心もまた消えていくでしょうね。
ただ、心というものを考えるとき、
身体性が伴わないと思われる、
他人と他人のあいだ
他人と物のあいだ
物と物のあいだ
他人と出来事のあいだ
物と出来事のあいだ
出来事と出来事のあいだ
にも、自分の身体性が絡んで心をひろげている事実がありますね。
他人の恋愛ごとにやきもきしたり、宇宙の出来事に魅了されたり、Unknownさんの言葉に触発されたり、
考えてみれば、心の広がりは、自分の身体性の伴わない「あいだに」己の身体性を絡ませて行くものなのですね。その広がりは心の大きな領域を占めていると思います。
さらに身体性とは物とものの「あいだ」なくして成り立たないのですから、結局心を問い詰めていくと、この「あいだ」に行き着いてしまうのですね。
心は「あいだ」にあり、その正体は空間、そしてその実体は波。簡単に言えばそんなことなのでしょうか。
まさに同感です。
他人と他人のあいだ
他人と物のあいだ、
物と物のあいだ、
他人と出来事のあいだ、
物と出来事のあいだ、
出来事と出来事のあいだ、というのも、
それを認知(見聞き)する限りにおいて、私たち自身の身体性を伴っているわけですね。
そうすると、
自分の身体性を伴わない「あいだ」において心が存在し得るとは思えません。
と言われるUnknownさんの意見は、私たちが認知できない「あいだ」には心が存在し得ないということになります^ね^
言い方を変えれば、心の広がりは、私たちの認識の及ぶ範囲だということです。
自分と物とのあいだ
自分と出来事のあいだ
自分と他人とのあいだ
自分と自分とのあいだ
には反省の伴わない即自的な心の場所があり、
他人と他人のあいだ
他人と物のあいだ
物と物のあいだ
他人と出来事のあいだ
物と出来事のあいだ
出来事と出来事のあいだ
には自分の心を他人の目を通して外側から見る心の場所があると思うのです。
いずれにしましても、「あいだ」を意識することで、心というものを身近に感じられる気がします。