次の日会社に向うため地下道を通りかかったときだった。
何気なく国道の交差点を見渡したその視線に、市の清掃車の姿が映った。
それは一瞬で視界から消えたが、私は何が起こったのかすぐに了解した。
その直感にたがわず、通り抜けた地下道はきれいに清められて靴は跡形もなかった。
「ウオーッ」
私は人目もはばからず、こぶしを虚空に突き上げて叫んだ。
間違いなくあれは芹里奈だった。私のためにあの靴はあったのだ。
すべては偶然だったのかも知れない。靴が捨てられ、一月以上も放置されて今清掃されたこと。夫を失なったA子が幼子を抱えて社に糧を求めたこと。芹里奈、そしてM。すべてばらばらの偶然が私という領域の中で必然に変わっているのだ。
その必然の中心に私がいる。
ばらばらの偶然は、私の及ばないところで起こっている。この及ばないものを受け入れたとき偶然が必然に変わる。必然とは受け入れであり、私自身なのだ。
このすがすがしい朝の空気さえ私の必然だといえた。
今この瞬間、何の疑いも不安もなく私はA子を受け入れることが出来る。
生まれて初めて自分の及ばない偶然のつながりに感謝し、受け入れて自然に私は胸元で手を合わせた。
それを神と呼んでもかまわないと思うのだった。
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