空の絵画 F10号キャンバスに鉛筆
誰も避けられない老い。
身体のあちこちに、不自然な痛みや病。
必ずやってくる死。
般若心経はそんなものは皆「空」だと言い、「不生不滅」だと教えてくれます。
しかしそうは言っても、実際の私達の感覚はそんな教えで納得できませんね。それで若返ることはありませんし、実際にこの身は確実に死に向かって進んでいるのですから。
般若心経と私達の意識の、このくいちがいは何処から来るのでしょうか。
それは修行した聖人と凡人の違いだと言ってしまえばおしまいですが、そんな馬鹿なことはないと私は言いたいのです。こんなえこひいきする存在が私達を造っているとはどうしても思えないのです。そこには必ず正当な理由がある。それはどういうことなのかを考えてみたいと思います。
この事を、四次元思考で考えてみると次のようになります。
四次元思考というのは、世の中は時間で動いているという考え方ですね。季節があり、種蒔き、収穫、入学、卒業。私達の生涯で、時間に関係しないものは無いと言っていいでしょう。これは皆、四次元思考なのです。要するに私達の普段の見方や考え方です。
四次元思考はこれら物質の姿を過去・現在・未来の三世一連の世界として見渡すことが出来る思考なのですね。それを可視化させているのが時間の概念だということは言うまでもありません。
そこで般若心経のこんな一節を解釈してみましょう。
是諸法空相 不生不滅(すべての現れは空である、生まれもしなければ滅することも無い)
「不生」の「生」は「生まれる」ことだと考えてみます。
すると、この世に生まれて私はここにいるのに、生まれないとはどういうことなのか?とまず疑問を持ちますね。
「生まれる」とは母親の胎内に子供が宿ること?
しかし胎児は生まれたのではありませんね。変化したのです。その過去には延々と続いて来た遺伝子の受け渡しがあったはずです。変化し続ける物質の一場面に嬰児がいるだけです。
では遺伝子は生まれたのでしょうか。
いえいえ、その更に過去には有機物タンパク質があり、更にその先には、タンパク質を生み出した無機質の物質があったでしょう。そしてその前には物質は形を持たないエネルギー的な存在であったかもしれません。それは空間そのものなのです。考えがここまで行き着くと、アインシュタインのエネルギーの公式 E=mc2 に行き当たります。エネルギーを空間と考えると、この公式は空間と物質の関係を示した数式だと分かるのです。つまり物質は空間が形を変えたものだという証明ではないかと、この連載の最初に書きました。 参照(アインシュタイン讃歌E=mc2(1))((2))
すなわち胎児は長い時間を経て空間が姿を変えて来たものであって、その間に新しく生まれたものは何一つありませんね。空間が変化していっただけです。つまりそれは「不生」と言えるのです。
他方「不滅」は、死のその先を考えれば見えてきます。死の未来を見たら無くなったものは頭脳が想い描いた幻想だけで、他のすべてのものは姿を変えて空間にとどまり、やがて空間に還るとしても滅することはない。
さらに無くなったものは幻想だけだ言いましたが、これさえ思考エネルギーですからエネルギー保存の法則が成り立つはずです。つまり幻想さえ形を変えて存在しているのです。
つまりこうして物質は空間から生まれて、やがて空間に還ると考えられるのです。
四次元思考で「不生不滅」を読み解くとすれば、こんなふうに理解するしかないでしょう。
こうして私達は四次元思考によって、計り知れない時間の流れを意識し、その時間軸によって広大な宇宙空間の切れ目のない連鎖を具体的に思い浮かべることが出来るのです。
しかしこれが般若心経の伝えようとしている世界観なのでしょうか。私は一つの疑問を持ったのです。それはこの世界観の中で「私」はいったいどんな位置を占めているのかと考えた時からです。
地球から250万光年先にはアンドロメダ銀河があり、宇宙には同じような銀河が無数に存在していると言います。そんな宇宙空間を考えたら、「私」などは無に等しい存在ですね。宇宙というものは死んでも行き着けない場所だと想像するしかありません。四次元思考による「私」はそんな小さなものに見えるのです。自分を1と考えたら、私達は天文学的数字に囲まれた、たった一粒の存在なのですね。確かに私達は(一個の人間として)死んでもアンドロメダ銀河にある惑星に行くことは出来ないでしょう。
たとえ「吾は空なり」と言う般若心経の達観を得ても、その「吾」は壮大な四次元空間の中にあっては塵のような存在でしかない。あまりにもはかなく小さな吾ではありませんか。しかもこの途切れることのない物質の、無限の流れを意識したとしても、そのことで「私」が死ぬという事実を払しょくできませんね。私という1個の存在は確実に消えて行くのですから。そこでは死ぬことで次の世代に引き継がれていくという考え方だけが、かろうじて四次元思考の与えてくれる救い、せめてもの慰めであるでしょう。
しかしこれでは本当の救いにはならないのではないかと考えずにはいられません。般若心経の世界観がこんな難解な思考で成り立っているとはとても思えないのです。
つまり四次元思考は般若心経にはそぐわないのです。
なぜなら、四次元思考は時間を軸にした思考だからです、先にも書きましたが、時間は物質の概念だからです。物質が移動したり離合集散していく様を認識するための概念だと言えるのです。
つまり時間の概念によって描きだされた四次元世界は、物質に執着した世界観と言っても過言ではありません。時間に追われる生活を私達は何世紀にもわたって繰り返してきたのですね。時間にとらわれないゆったりとした生活を夢見ながら、しかし死ぬまでにせめてこれだけはやっておきたいと思ってしまうのです。
「色即是空」の世界を、色(物質)の概念で思い浮かべてもうまくいかないのは当然だというほかはありません。般若心経を正しく理解するためには空を体感するための(空間)の概念が必要なのです。
物質といえば動かない形のあるものを連想しますね。この身体は成長して老いて行きます。それは確かな事実と言えましょう。しかしそう思うのは物質に対する固定観念なのです。それは物質(身体)こそ自分であるというゆるぎない思いのことです。
しかしこの固定観念から解放して、軸足を空間に向かわせる思考方法が存在します。それが五次元思考なのです。それによって主体が物質から空間に切り替わるのです。
それが、スケールの概念で世界を認識する方法なのです。
下図を見てください。
この図は私が作成したものですが、このように何を認識するかによって、現れる世界は逆転して見えるということが分かると思います。そしてなにを認識するのかを決めるのは他でもない自分自身なのです。
つまり言いたいのは、認識を物質に向けるのか、空間に向けるのかによって世界は逆転して見えるし、何を見るのかはあなた次第であり、さらにこれは見方だけの問題であって、事実はただ一つだということです。
このことを踏まえて言えば、
四次元思考では自分は身体だと考えるのに対して、五次元思考は、自分の主体は空間であるという考え方をするのです。この五次元思考はスケールの概念によって成り立ちます。
なぜスケールかと言えば、それが空間を認識するために必要な唯一の概念だからです。私達はスケールの概念によってはじめて空間を認識することが出来るのですね。
四次元の世界観をスケールの概念で見直すと五次元の世界が見えて来る。この五次元思考が、「私」の存在は身体ではなく、実はこの身体を包んでいる空間の方だった、という気付きをを与えてくれるのです。「私」の主体は空間だったという認識なのです。
これによってちっぽけな「私」は大宇宙へと逆転します。
「私」の身体が「空」だとしたら、たとえどんなに巨大な銀河が存在していても、「私」はその銀河を包み込んでいる空間であるのです。あるいはそれがどんなに小さな一個の素粒子であっても、それを包んでいる空間が「私」だという実感の伴う認識がそこから生まれます。
これを空体と呼びましょう。するとこの空体は私の内にある空間もアンドロメダ銀河を包む空間も同じつながった「私」に他なりません。距離や時間は意味をなさなくなりますね。「私」はちっぽけな存在から宇宙そのものの大きな存在に変るのです。
すなわち五次元は、この身体という限定されたスケールに縛られるのではなく、変幻自在に動くスケールの概念で世界を観る世界観だという訳です。空間はどんな大きなものも、どんな微小なものも等しく包み込んで存在させている。空間を切り離せるものは何も存在しない唯一無二の空体、これが「私」だという新たな気付きなのです。
スケールの概念は空間を観、認識する方法です。これをもう少し詳しく書いてみましょう。
私達は空間だけを認識することは出来ませんね。見えないし、つかめないし、何の実体も感じられない。空間だけを思い浮かべることは出来ないのです。
しかし今の科学は空間に実体を見つけ出しました。空間とはエネルギーであり、エネルギーは波動だということです。すでに見てきたように、アインシュタインのエネルギーの法則は、空間から物質が生まれるさまを凡人の私にさえイメージさせてくれました。スケールの意識を持てば、見えない空間に対して私達は無数無限の波長をもつ波を空間の中に思い浮かべることが出来るのです。
科学的に見ても、この空間には、極小の波から極大の波まで想像出来るいかなる波長も同時に存在しているのです。
極小の波長に同調すれば、その空間には素粒子が浮かんでいるかも知れませんし、極大の波に同調すれば銀河が見えてきます。
これを「吾は空なり」と言う般若心経の世界観と重ねあわせると、私達には驚くべき事実が見えて来るのです。
その事で、この身体を「私自身」と思い込んでいた自分に突然気付くのです。それは単なる思い込みに過ぎないという理解がやってきます。この肉体だけが自分だと、どうしてこんな思込をしていたのだろうと思います。心は簡単に肉体を飛び出していけるのに、身体がついて行けないから、単なる空想は実体の無い幻想だと疑いもなく処理をしていた自分が見えてきます。この固定観念を打ち破り、この身体を取り巻いている「空」こそが「私」なのだという新たな気付きが、スケールの概念を持つことで起こるのです。
心の成長を培ってきた気付き。それは実際何なのか言えば、己の正体への目覚めなのではないかと思われます。気付きが必要なのは、その前に立ちふさがる誤った思い込み、その固定観念を一つずつ取り除いていくためであったと考えるなら、おそらく最後の固定観念は自分自身となるでしょう。それを打ち破る気付きこそが、「吾は空なり」だったのです。
この気付きは、自己と言う強固な固定観念を根底から覆すのです。
そしてそれこそが、般若心経のいう涅槃ではないかと思えるのです。
実際、肉体から意識を離して己を見つめてみれば、今まで当然のごとく思っていた自分の感覚の全てが、実は空だったということに気付かされます。苦悩を含めたすべての日々の想いは身体ではなく空体だという事実に目が開かれます。
なんとなく感じていた体内宇宙は自分の身体を造っている空体の実感だったという思いに至るのです。
この体内宇宙は、銀河を存在させる宇宙と切れ目なくつながっている。さらに素粒子一個の中にある物質内宇宙も例外ではないでしょう。この全存在のスケール的なつながりを同時に存在させることが出来るのが、空間なのです。空間だからこそそれが可能だと理解できるのです。
そして重要なことは、このたった一つの空間を「私」と考えてはいけない理由は何処にもないということです。逆に、空間こそ「私」の空体(からだ)だという論拠は般若心経にあり、今や量子力学の分野では科学という限られた世界とはいえ、その事実に迫ろうとしていると私には思えます。
五次元こそ般若心経の世界観を描きだせる思考方法だと言えるのです。
(以下参考記事)
(現在連載中 私の体験)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)15 私の体験3
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)14 私の体験2
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)13 私の体験
(量子力学を考える)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)12 量子力学との合流4
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)11 量子力学との合流3
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)10 量子力学との合流2
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)9 量子力学との合流1
(般若心経をどう理解するか)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)1
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)2
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)3
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)4
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)5
般若心経を読み解く? 五次元的解釈)6
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)7 一部加筆
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)8 追補
(以下は数回分をまとめた長文です)
凡人の語る宇宙論(アインシュタイン讃歌E=mc2)1
凡人の語る宇宙論( アインシュタイン讃歌E=mc2)2
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