⓶ One more time, One more chance
僕はその日、あてもなく茫然と町を歩いていた。
風薫る初夏。さわやかな季節。
街路樹すら新しい葉を風に躍らせ、光り輝く季節だ。ちらちらと揺れるやたら眩しい木漏れ日を、立ち止まって僕は見上げる。
空は青く澄み、雲はあくまでも白い。
素晴らしい季節だ。
僕には関係ない。
職場で繰り返される陰湿な黙劇には心底嫌気がさしていたし、長い付き合いになるガールフレンドとのことも、僕の心を重たくしていた。
決断の時がきている、色々な意味で。
目をそむけ、気をそらし、自分で自分をごまかすようにしてやり過ごしてきたあれやこれやと正面から対決しなくてはならない、わかっている。
いつまでも若くはない。
分別やら大人の自覚やらを持って、人生を見据える時期がきているのだろう。
遅い、と彼女なら言うのだろうか?
大学をドロップアウトした時ですら僕を見捨てなかった彼女だが、四捨五入すれば三十になって久しいのにもかかわらず、十代の少年と変わらない心持ちでふらふらしている(ようにしか見えない)男に、いい加減いら立つのも当然だろう。
ゆうべ彼女に、私はあなたのお母さんじゃないと言われて愕然とした。
彼女を母親だと思ったことなどなかったが、なるほど言われてみれば、本来なら母親に期待すべき愛情や気配りを、無意識のうちに彼女へ求めていたかもしれない。
絶句している僕を置いて、彼女は静かに出て行った。
僕は追いかけなかった。追いかける資格などない気がした。
心の何処かがほっとしていて、自分で自分の狡さを軽蔑した。
何処からともなくいい音が響いてきた。
(オカリナ?)
『コンドルは飛んで行く』ではないだろうか。音楽なんてまるでわからないけれど、さすがにこの曲は聞き覚えがある。
音色に誘われるように僕は、角をひとつ、曲がった。
少し行った先に昔風のカフェらしい店が見えてきた。
いや、カフェというよりも喫茶店だろうか?
しかしここまで古色蒼然としていつつも現役の店、など、リアルで見たのは初めてだ。
この町に住んでかなりになるが、こんな店が自宅からちょっと歩いたところにあったなんて知らなかった。いかに、自宅と職場とコンビニの周辺だけでたらたら生きてきたのかがわかろうというものだ。ふと苦いものが込み上げてくる。
オカリナの音色はその店から聞こえていた。
窓も扉も開け放され、まとめて端に寄せられているカーテンが時々、風に揺れている。
僕はゆっくりとそちらへ近付いた。
開け放された扉の向こうに、カウンターのスツールらしい椅子に座った初老の男性がオカリナを吹いていた。彼の後ろにある大きな出窓から差し込む光のせいで、やや逆光気味になっていた。
軽く目を閉じ、彼はオカリナを吹き続けている。
彼が奏でる『コンドルは飛んで行く』は、のびやかに初夏の青空へと吸い込まれる。
南米の高原の乾いた空を悠然と飛ぶ、コンドルの姿が見える気がした。
短めにカットしたごま塩頭。赤いチェックのシャツにブルージーンズ。体型も中高年にしては締まっているし、横顔も凛々しい。オカリナの腕前を含め、なかなか格好いい人だった。
ただ、ジーンズのベルトがスーツで使う野暮ったい黒の革ベルトなのがおじさんくさい。そこが唯一残念だ。
頭の一部でそんなことを思いながらも、僕は馬鹿みたいに立ち尽くし、むさぼるように彼のオカリナを聴き続けた。
『コンドルは飛んで行く』が終わると、次に日本の唱歌がいくつか奏でられた。
『さくらさくら』や『故郷』、『荒城の月』などだ。
明るく、柔らかく、それでいてどこか哀しげに澄んで響くオカリナの音色。
心にも身体にもじんわりと沁みる。
拍手の音で我に返った。
今の今までオカリナ奏者の彼しか見ていなかったが、そもそも彼は店の中を向いて演奏していたのだった。僕の方からはあまりよく見えないが、そちらにそれなりの数の聴衆がいるらしい。
「いやあ、さすが。素晴らしい。いつもながらすごいですねえ、ジンさん。ジンさんの後は出にくいんですよねえ」
白いものの多い鬚を蓄えたオカリナ奏者と同年配の男性が立ち上がり、大きく拍手をしつつにこにこ笑いながら立ち上がった。
赤いバンダナで頭を覆い、黒いエプロンをきっちり身に着けている。
いやいや、と笑いながら、オカリナ奏者のおじさんはスツールから降りる。膝に載せられていた大小のオカリナが、大切そうに両のてのひらで柔らかく握られている。
そのタイミングで僕は、店の前から立ち去るつもりだった。が、
「どうぞ中へ入って下さいな」
と、当のオカリナ奏者に声をかけられてしまった。
「さっきから熱心に聴いてらっしゃいましたよね。音楽、お好きなんですか?今日は名演奏家がそろっていますよ、ぜひ聴いていって下さい」
言いながら彼は、くしゃっと相好を崩した。人好きのする笑顔だ。
「迷う方の『迷』、かもしれませんが」
バンダナの男性が横から口をはさみ、さざ波のように笑いが広がる。
「あ、いえ……」
躊躇する僕の前へ、ぴょん、とでもいう感じに小柄な丸っこい女性が出てきた。
シンプルな黒のワンピースに裾にフリルのある木綿の白いエプロン。古典的とも言えそうなウエイトレススタイルの……よく見ると四十は過ぎていそうなおばさん、だった。
初夏らしいショートカットの髪は栗色で、ところどころ少しだけ金のメッシュが入っている。そこはまあいいが、その頭にご丁寧にも白いフリルのカチューシャを着けているのにはぎょっとした。コスプレだなこれは、と、僕は内心ややたじろいたが、年齢や体型を気にせず堂々としているからか、さほど見苦しくはなかった。
「どーぞ。本日はワンドリンク何でも三百円。冷たいものでも飲んで、気軽に楽しんでいって下さいな」
にこにこしながらそう言われると、なんとなく拒否しづらい。おばさん特有の愛想の良さと押しの強さに寄り切られた形で、僕はその日のその時、初めて『喫茶・のしてんてん』の客になった。
(つづく)
>ぎょっとしたけど(中略)年齢や体型を気にせず堂々としているからか、さほど見苦しくはなかった。
そうか、堂々として居ればいいんだ ♪・・と、容姿のアヤシい私は納得いたしました。
>おばさん特有の愛想の良さと押しの強さに寄り切られた形で
プハッ ♪ 結構面白いじゃん コレ’( 小説 )
ざっくばらんな感想でございますが、むっちゃんさん、ゴメンね ♪
そうそう、堂々としていればなんとか格好がつくものです☺️(別名開き直り)。
中年以上の者の特権でしょう。
ただやり過ぎると、イタいとか言われるでしょうね〰️(苦笑)。
その辺の塩梅は、中年の人生経験(タイソーな…)で賢く乗り切る、と(笑)。
『一閃一刀』のsure_kusaさまに面白いと言っていただけ、とても光栄です🎵
今後も、面白いと言っていただければ…と思います。
それでは、朝の目覚まし・ブレンド珈琲でももって持って参りましょう。
…素直に凄いと思います。…真似のできない技だと。
…前半は…あ…ごふっ(不器用セミ親父一名ダウン。図星と諦観と)。
…後半の衣装の表現、なるほどこうやって描写するのですか…勉強勉強。
おまけ:主人公よ、コミケに行ってみるのだ。凄い(いろんな意味で)コスプレの前にコスプレの概念が吹っ飛ぶけど…
のしてんてん喫茶に集う…文才、画才、笑才、詩才…広く愛されし才能には羨ましいものがありますね。
そして次回作、そしてクライマックス:真相?を…楽し~みにさせていただきます、むっちゃん様。
いつもの蜂蜜添えホットミルク、でしょうか?
文才、画才、笑才、詩才…そして比類のないペーパークラフトの才。
大事な部分、抜けてますけど?折師さま。
さてさて、ややヘタレ気味の今回の主人公。
彼の今後をあたたかく見守っていただけますれば幸甚でございます☺。
では、ごゆっくり。