のしてんてん 誕生の予感 キャンバスに鉛筆
時にはうれしいお便りも届きます
<お便り>
私の求めていたものが
全く描いていただいた絵のようで、
私の求めていたものがこの絵の通りです。
自分が宇宙と一体になっている気がします。
自分で求めていたものが分からずに悩んでいましたが、
やっと人並みに
生きていけると喜んでいます
<返信>
「自分が宇宙と一体になっている」というお言葉は大変うれしく思いました。
人は自己意識が生まれて以来、自分の隠された半身を探し求めて生きてきたと思います。特に芸術において、
「我々は何処からきて何処に行くのか」というゴーギャンの言葉のように、
自分の正体と行く道を探り、まだ見ぬ自分の隠された半身を探す旅に出るということでしょうね。
T さんはそんな芸術家のど真ん中におられる方だと、お会いして以来感じ、尊敬しております。
そのお人柄と、何より装飾のない作品の清潔さにおいてです。
その作風は、私の追及する世界観とほぼ重なることにも驚きましたが、
最近になってその世界観(五次元思考)が熟成してきた感があって、
よりT さんが追及されている世界が身近に感じられるようになったのです。
それが呼吸の図の製作につながりました。
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五次元(新たな認識能力について)
第八章 空体の実践
(過去の参照記事)
空体については過去記事に特集あり、
空体(くうたい)について(1)~(10)
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)
興味あれば読んでみてください。
(新たな境地)
二年前の上記特集後、新たに至った気づきが呼吸である。
気づきとは我ながら面白いもので、二年前に同じ考えの中にいながら
しかも同じ呼吸を意識しながら、そこに深い注意が向かなかったと自己分析するしかないのである。
空体への入り口を求めながら、
今思えばその答えをルビンの壺にピントを合わせるだけで、他に意識が向かなかったのである。
その入り口は背景に意識を向けることだと考えていたのだ。
黒に意識を向けるか白に意識を向けるかによって同じ存在が相反するものに見える
論理的に間違いはないが、しかしそれでは意識が身体としての自分から切り離されてしまうのだ。
これは今思えばの話だが、気づきとはまさにこのことをいうのだろう。
気付けばなんということもない。
自分の身体の生きる運動、呼吸そのものに入り口のスイッチがあったといういことである。
(身体と空体と呼吸と)
身体と空体は互いに補いながら自分をつくる。
この身体と空体の間をつないでいるのが呼吸なのである。
すると、
身体から見て吸う息というのは
空体の吐く息ということになり
身体から見て吐く息というのは
空体の吸う息ということになる
つまりここに
意識の向け方によって
身体と空体を個別に体験できる
スイッチが存在するということなのである。
(実践・腹式呼吸)
眠っているときなどは、自然に深い息になっている。この時の息遣いは腹式呼吸と言われる。
これは直接肺を膨らませて呼吸をする肺呼吸とは違って
腹を膨らませて空気を吸い込む呼吸法である。
息を吸うたびに腹が風船のように膨らみ、
その風船をしぼませるように息を吐くのである。
腹式呼吸をすると、吸う息で腹が膨らむ
するとこれは、
自分の半身である空体が風船を膨らませるように、空気を吹き込んで腹を腹を膨らませていると考えられる。
そんなイメージを持つことが出来るということなのである。
(呼吸によるリアルな体験)
空体を意識することで
自分に起こっている呼吸を逆転したイメージで認識できる。
すると私に空気を送りこんでいる空体に意識が自然に向いていく。
その空体は自分の身体を抜け出しどこまでも広がって、自分という境界は宇宙の無限の彼方にまで押しやられていくのである。
そうすると、
呼吸によって送り込まれる気の流れを追うことで、空体のその無限の大きさに、リアルな実感を伴う体験を得るのである。
私達はこの空体がなかったら、一秒だって生きていけない。
それはなんとなくわかっていても、それを具体的に体感できなかったのが実態だった。
その理解に、より具体的な体感が伴わなかったのである。
しかし呼吸は、このふんわりした体感から
よりシビアな体験を伴う空体理解につながるということなのだ。
空体が腹が張り裂けそうになるまで空気を送り込む
すると身体は空気を吐き出そうと悲鳴を上げる。
どんなに呼吸を吸い続けようとしても、
吐く息は自然に起こってくる。
空体が吸い取ってくれるのだ。
身体のこれ以上ないシビアな、生かされている体験がここにあるのだ。
限界まで深い腹式呼吸を続けてみるとそれがよくわかるだろう。
身体は空体によってシビアに生かされている。
その空体に向かって自我意識を移してみると
それはほぼ
瞑想でしか得られなかった宇宙との一体感と同じであることがわかるのである。
(2023年3月記事 瞑想と悟りの形 参照)
空体とは何かという論理的な話ではなく
存在して生きているという感覚の中に起こるシビアな空体の体験
これが
自分自身の自分自身なのである。
無茶苦茶な言葉遣いなのだが、どうしようもない。
言葉を失う地点にやってきたのだから。
(言葉を超える)
言葉を超えたところに空体はある
その空体に身を置くということは
空そのものに入るということである。
身体には
悩みを抱えた自分がある
悩みとは何か
それは言葉なのである
言葉は否定で成り立っている
愛という言葉は
愛でない意味から成り立っている
空体は
その言葉を超えるのだ。
愛という言葉など存在しない
愛でないものはそこにはないということだ。
空体は宇宙そのものである。
空体に自我を移すということは
私は宇宙だというのと同じことなのだ
そこには否定は存在しない
そこには一切の肯定がある。
言葉を超えるということは
そういうことなのだ。
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次回予告
(第九章 模索する五次元認識)
知ったから悟りが来るというのではありません。
認識論はどこまで行っても
人間の立ち位置から離れることはないのです。
しかし認識を知り尽くすということが
人間を
人間のままで
至福に至る道があるかもしれない。
そんな夢を見たいのです。
次回そんな思いを
並べてみたいと思います。
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