心
出発点が空だとしたら
私達に何もないのは当たり前のこと
さ あ さ
考えて みよう
何もないことに恐れを持っていなかったか
何もないことに焦りを感じていなかったか
何もないことに未熟を感じてなかったか
何もないことにいら立ちがなかったか
何もないことに恥辱はなかったか
何もないことは苦だろうか
何もないこと
そこから逃げようとしていないか
逃げようとしたら、追ってくる邪悪を自分が作り出さねばならず、苦悩を演じなければならず、おかげで心は死んでしまう
自分で作り出した恐れが現実になり、それもまた己の作り出した妄想なのに、不幸の主人公を真実のように演じることになる
苦しい、悲惨だ、不幸だ、だって何もない 理解者はいない、財産もない、ないないずくめ が楽しいわけがない 恥ずかしい
違う!違う!!すべて逆なんだ!!! 空という真実を知れば人生は逆転する 握りしめている手を開け そこに空が満たされる
お久しぶりで^す^
私の体験を書いたものなのですが、どんな観点から見た解釈なのでしょうか。
科学的?特定の宗教観?哲学・倫理的?
私にはとても興味深い提言です。是非「空」についてのお考えを聞かせて下されば幸いです。
これらはいずれも空なればこそ
何故なら、色は空に離れず、色は空に異ならず
即は不離不異、不離不異は同一
色は縁起
縁起であるが故に空
苦若自作者 則不従縁生
因有此陰故 而有彼陰生
いかなる思考も、空を縁起にしているのですから、何もないことに苦を演出することは妄想の極みということでしょう。
空は互いに素という言葉は、互いに相容れないものがつながって空が出来ていると言っているような気がします。相容れないがゆえに、空は永遠に不滅であり、終わりもない。
素数の意味で捉えたら間違います。
互いに相手が自分の素です。
反語的な意味で使っているとは
とても思えません。
では私は、ZIPさんの話が全く分かっていないことになります。
もし私にその素質があるのならぜひそのお話を理解したいと思います。
書きながらアッと思ったのが、
「互いに相手が自分の素」という言葉にひらめきが起こりました。これはよくわかります。つまりは、他者を認識したところで、それは自分であるということですよね。私の思考の基本はそこにありますから。
私の表現「空は互いに素という言葉は、互いに相容れないものがつながって空が出来ていると言っているような気がします。相容れないがゆえに、空は永遠に不滅であり、終わりもない。」で、「互いに相容れないもの」というのはまさに互いに相手が自分の素であることに起因しています。私とは私の思い描く他者や宇宙のすべてのことを指しており、他と交わることのない宇宙の素であるのです。素は人間の数だけ存在して縁起を作り出している。
すると、素とは、1と自分以外に訳せない素数と同じ意味合いを帯びてくる。
その間違いは何処にあるのか、私のレベルでも分かるためには、もう少し言葉と言葉の間のつなぎが必要です。
私が反語といったのは、他者(自分の認識)は自分でありながら、それを他人と思ってしまっていることを指しています。
何故なら空は縁起だからです。
縁起は生じもすれば滅するものです。
空が永遠でなく不滅でなければ、その空の終わりをどのように認識できるのですか?終わりを認識したとたんその外側を求めてしまう。
私はこの認識の宿命から逃れるすべを知りません。
縁起は生じもすれば滅するというのは理解できますが、それは肉体が生じ滅するのと同じように、ただ空の中で起こっている、まさにその縁起ではないのですか?