のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (8)

2017-04-16 | 展覧会

森田子龍 「道」

制約や拘束のない自由はない。それを避け、そこから逃げ出すのではなく、その矛盾対立の中で苦しみぬく。その極限において内からはじけ、底が抜けて、内と外とを分けていた枠組みが抜け落ちる。内もなく外もなく、内外一つになる(森田)

 中村二柄監修「現代の書芸術ー墨象の世界」より


私の絵は、墨象とは対称的な作風を持つ。いわゆる西洋絵画に端を発しています。

森田子龍と同じタイトル「道」 

こうして比較してみても。東洋西洋の感しきりというところですね。

この絵を描く過程は、

発案⇒構想⇒下絵⇒鉛筆による描線⇒仕上げ⇒完成となります。


ちなみに森田子龍の場合は二柄先生風に言えば、

発案⇒無自我⇒(筆墨=完成)ということになる訳です。


ところで、わたくしごとですが、これまでの経験から、漠然と分かっていることがありました。

それはこんなことです。

構想の段階で、作品は実は心の中で出来上がっています。

その完成された世界に向かって作品を描き進めるのですが、何のトラブルもなく描き進めて完成した作品も少なくありません。

しかし決まってそんな絵は、駄作なのです。

駄作かそうでないかを判断するのはもちろん自分の感性なのですが、いい作品は、いつまでも作品の空間の中に自分がいて心地よいわけです。

ところが悪い作品は、どこにも自分の居場所がないのです。形だけの薄っぺらさを感じて、ギリギリと胸が痛くなります。

この判断は、自分で説明しようもありませんが、自然に起こる心の現象ですね。

良し悪しの判断、それは自分が安らかにいることが出来るかどうか、あるいは心に波紋を呼びながら、離れられない引力があるかどうか、そのような基準で起こっている心の現象のように思えます。人を好きになるのも同じような心の働きだと思いますが、このような心の現象を私は感性と呼びます。


話しが飛びましたが、「何の障害もなく最初の構想が実現した私の絵は、駄作である」という法則めいたものをなんとなく感じてきたわけです。

そんな折、私に修羅の絵がやってきたのです。

発案と同時に、頭の中に完成図が浮かびます、それは今までにない空間の表現でした。その空間にひもが一本横たわっている。それだけで宇宙の根源が画面の中に現れる。その空間の中で、私は至福感さえ覚えておりました。あくまで頭の中だけの話しです。

構想は自然に生まれ、私はその空間の中でいつまでも遊ぶことが出来たのです。下絵は、その心をさらに興奮させ、その時私は完ぺきな作品の中にいて、あとはそれを現実のものにするだけだったわけです。

鉛筆を動かすのは、一歩一歩その目標に近づくことでもありました。ところが、作品が9割を過ぎ、ほぼ完成に近づいたとき、反逆が起こりました。

私の至福の空間は、突然干からびた空間に変わったのです。画力不足と言えばそれまでなのですが、想定していた空間が生まれない。絵を見て「良し」と感じられなくなったのです。

そんなはずではないと頭は考え、何度も絵を見直しますが、そんな頭脳の操作など役に立つものではありません。私の感性が勝手にやって来て「否」を唱える。それだけで私の世界は簡単に崩壊するのです。

手元にナイフがあったら切り裂いていたかも知れない激情に駆られて、その時私は、筆やら布巾やら、手当たり次第でキャンバスに殴り掛かって、絵をめちゃめちゃにしたのでした。まるで子供の癇癪です。

激情がおさまって、メチャメチャになった絵を見たとき、その瓦礫の一部に目が引きつけられました。感性が「良し」という部分があったのです。

どう言えばいいのか、つまりチャップリンの映画の、戦後にたたずんでみる虹のような感覚と言えば近いでしょうか。

どこに向かって進んだらいいのか分からない、闇の中で、感性だけが導いてくれるような感じでした。具体的には「良し」という声だけに従って闇の中を進むというそんなイメージです。

私は半ば泣きながら、感性が「良し」という方向だけを見つめて進み始めました。

そしてトンネルを抜けたとき、私は初めて自分が描きたかったものがわかったのです。それは目の前にありました。

その時、ただ「これだ」という意識しかありませんでしたが、はっきり分かったのは、頭のつくり出した風景を飛び越してそれはあるということでした。

頭が「良し」というものと

感性が「良し」というものは明らかに違うのです。

その時、私は漠然と感じていた、「頭に描いた構図を100%実現したら駄作」という法則の意味をようやくつかんだと思いました。

するとにわかに、二柄先生の美術論が浮かんできて、私の五次元宇宙と結びついたのです。

私の実感する、

頭で描くということは、それは自我を主体にして描く西洋絵画の手法であり、感性のささやきに従って描く事が、東洋絵画の手法だと理解したとき、

同時に私は、二柄先生の美術論に小さな誤謬を見つけました。

その経緯は ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (5) で書いた通りです。

すると、その発見が、二柄先生と深く交わる入り口となったのです。


すべてのものの優位に立つもの、それは感性だということ。

作品に現れる精神性は、根源現成の代名詞ではなく、

それは実は、根源現成たる感性の発露であったわけです。


発案⇒無自我⇒(筆墨=完成)という東洋絵画の手法、特に書において顕著である筆墨の即自性は、確かに根源から現れる絵に違いありませんが、しかしそれでもなお、それを「良し」とする感性がなければ作品とはならないのですね。

もしそうでなければ、墨を塗った足で歩いた鳥の足跡が最高の美術品となってしまうでしょう。

結局のところ、芸術とは人間の感性の表明である訳です。

感性を高めていくことで、人間は真実に近づく。真実とは根源であり、その根源に達した感性が作品となって現成する。なかんずくそれが人間の精神性として現れるということなのですね。

するとそこには、西洋も東洋もない、一人の人間(感性)があるばかりなのです。

芸術は本来、人間と自然との統一である

(中村二柄:東西美術史 岩崎美術社 P586 14)

この二柄先生のことばを引用すれば、西洋は人間、東洋は自然という大まかな分類として見ることが出来ます。

感性とは、まさに人間の根源から湧き上がってくるものであり、その根源こそ自然の中核である訳ですから、つまり芸術は感性によって一つになる。

その姿は、自然としての人間。あるいはその覚醒なのです。


それは次の表とも重なります。

これは私が考案した思考地図(のしてんてん系宇宙論)ですが、感性とは、この地図を「無」から「覚醒」に向かって進化していく過程の中で現れてくる心の声であり、それはまた、根源現成に向けて成長していくものなのです。

(この表の説明はあえていたしません。ただ漠然と、人としての進化とそこに現れる感性の成長を視覚的に感じて頂ければ幸いです)



 











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4 コメント

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Unknown (蓮の花)
2017-04-16 08:59:50
何だか...
今回は読みながら、のしてんてんさんの感性という水滴みたいなものが私にぽつぽつと降った感じになりました。
鉛筆先に感じられた激痛がどのような感じであったか、推測だけですが何とか思い描くこともできました。

想いを視覚化していく画家は、身を削る苦痛の引き換えに
良い絵が持てるのでしょうね。
削られた身の分だけ
流した血の分だけ
壊した自我の数だけの
結果が持てるのですね...

内出血したなら
外に滲み出ないから
他人はその苦痛が分からないでしょうね。

追伸:前回の、のしてんてんさんの私へのコメントは完璧すぎて
書き返さずそのまま置いたほうが
よいと
思いましたのでその旨を伝えたいです。
返信する
雑談に来ました (むっちゃん)
2017-04-16 13:43:55
どーも、マスター。
雑談に来ました。

何度か読みました。
修行中(初歩)ですので、完全に体感出来てる自信はないですが……じわりとわかるような気が。

例の架空の王国の話のコメントで、作品が自分でも思いがけない形で動いてるのは良いことだ、という内容の励ましをいただいた根本が、これらの体感だったのですね。

あの作品は、今まで私が書いた中では不思議な成立の仕方をしました。
構想とラストは見えているのに、肝心の物語が見えてこない、動かない、とでもいうのでしょうか?
登場人物も主要な人達は見えているし、役まわりも見えている。にもかかわらず物語が動かない。
うーん……とうなって約1年。
外堀を埋めるように?番外の話を幾つも書き……そこで初めて現れたチョイ役的な脇キャラが実はキーマンなのだと気付きました。話の本流から外れた人なので、とても意外でした。
キーマンだろうと思いつつも、やや及び腰で(ホントに良いのか?と思いました)彼に手綱を渡し……以来、一気に物語が進み始めました。

とても不思議な体験でした。
着地点は見えているのにそこまでの道筋がほとんど見えない。
見えにくい、経験ならありましたが、ここまでそれが極端な創作は今回初めてでした。

卒論からひとつ抜け出た研究論文(笑)、のたのたしつつも書けた、のかもしれません。

次は……体感を中心にした、そんな話を書いてみたいと思っています☺。
どこまで私の中の理屈こきを封印できるでしょうか?
返信する
蓮の花様 (のしてんてん)
2017-04-17 09:53:06
ありがとうございます。

心の世界は、外からは見えない。

この当たり前のことに、人は生涯をささげて生きているのでしょうね。

様々な方法で、理解を求め、理解しようとする。

そしてついに、一番確からしい己の探索に向うのでしょう。

一緒に、旅を続けて行きましょう^ね^


先日のコメントは、鏡のようなものです。

ご覧になった完璧は、蓮の花さんの姿なのです^よ^

返信する
むっちゃん様 (のしてんてん)
2017-04-17 10:02:13
少しでも、心に響くものが有ったら私もうれしいです。

不思議な体験は起こるものです。不思議がっているのは、頭の方なんですから、頭が不思議がればそれだけ、

あなたの感性が自由に動き出しているという証しなのかもしれません^ね^

理屈こきを封印できません。
封印と思うものの正体こそ理屈こきですから、いわば自作自演です。

そんなものほっといたらいいのです^よ^

自分の場所を^ね^
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