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空体による自動筆記鉛筆絵画 (最新作733✕330)
(自動筆記とは作者自身が観客となって進行を見守り楽しむ創作方法)
今回は空体を感じるとはどういうことかということを私の体験から書いてみたい。
身体+空体=私
ならば身体を認識するように、
空体を身近に感じる方法があるのだろうか。
下図は認識の仕組みを図で解明した心理学者エドガー・ルビンの二重図形である。
一方を認識したら他方は背景になって認識できない。
これが私たちの認識なのだ。
ルビンの壺と呼ばれるこの図は、
壺に意識を向けて認識すると、人は認識できなくなる。
逆に人に意識を向けると、壺は向き合った人の間の空間になって認識できない。
無理にも両方を認識しようとすると、意識がチカチカと点滅するように感じるだろう。
ルビンの壺はこのように人間の認識の仕組みを図で見事に示したのである。
それは空間と物質の関係そのものでもある。
私達の認識は身体(物質)に向けられている。
それは同時に、空間は背景だと考えてきたことを意味しているのだ。
空間は認識出来ないもの、あるいは認識対象外だと思ってきたのである。
しかしそれはただ、そう思い込んできたというだけなのである。
そこが重要なポイントだったのだ。
「身体」と「空体」という考え方をするようになると、
自然に、空体を主人公にした見方もあることに気付く。
それが空体もまた自分であると、明確に認めることが出来る第一歩なのだ。
すなわち
私達の認識は
自分の身体に向けられるだけではなく
空体に向けてその実体を見ることも出来るということである。
その時知っておかなければならないことが、
①身体を認識したら空体は背景になって見えなくなる
②空体を認識したら身体は背景になって見えなくなる
という
ルビンの壺の図の関係なのだ。
空体は単なる想像で、イメージの中にある存在ではないか。
見えないものを考えたところで意味のないことではないか。
意識が身体から離れない時代、私はそう考えてきた。
しかしそうではない。
見えないのは
身体に意識を向けているからなのだという事実を知ること。
これが空体にたどり着く
最初の一歩なのである。
ではどうしたら空体を見ることが出来るのか。
目に見えない空体は
心で観る。
しかし、
心と言っても十人十色の精神世界のことではない。
それは皆が共有して理解し合える論理の道にあるのだ。
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