(せまき道より・・・・)
「受容」ということばの意味を広げて考えると、私たちが意識している世界のすべてが、受容だということになります。
朝日を浴びて鳥の声を聴き、食事の支度。心に浮かぶものごと、、目の前の出来事、テレビのニュース。延々と続く意識の流れ、それは眠りにつくまで途切れることはありませんね。意識は興味本位に様々な事柄に移っていきますが、けっして途切れることはないのです。
この切れ目なく続く認識世界は、すべて自分の受容がつくりだした世界と言えるのです。これはすでに見てきた、私空間そのものです。
つまり、私たちは公空間(真実の世界)を完全な形で見ることはできないために、真実を受容して自分の理解できる範囲で世界をつくりあげているわけですね。言い換えると、私たちは真実を受容して私空間をつくると考えられるのです。
もう一度言いますと、私たちは真実のただ中に生きています。しかし私たちはその真実を見ることが出来ないのです。私たちに出来るのは、その真実を受容して理解することだけです。私たちはこうして自分の理解の及ぶ範囲を世界と認めているわけです。
そういうと、反論が返ってくるかもしれません。「こんな世の中をワタシハ受容しているわけではない」と・・・。
もちろんそう思うのは間違いではないかもしれませんが、それはアナタが受容した世の中に対して不満を持っているにすぎないのです。
つまり、誰しもがそのその良し悪しの判断(感情)とともに世界を受容していることになるのです。
受容は、感情に結び付きます。
なぜなら、真実を受容するということは、それが、「よい」・「わるい」・「わからない」・「ふつう」という感情の区分を促すのです。まさにそれが、その人の受容のレベルを物語っているわけですね。
そこに、子供から大人まで、成長に伴って踏んでゆく人間性の階段が加わって、私たちは同じ真実を見ながら、千差万別の世界観を持つようになるわけです。
その世界観は、各自のつくりだす私空間になります。その意味で、私空間は自分だけの世界であり、そこから出ることはできない存在なのです。
ですから、私たちの深層にある望みは、この真実に帰ろうという回帰本能かもしれません。そんな願いが本当にあるとするなら、知識を増やし、出来るだけ真実に近づこうとする人間の欲望は簡単に理解することが出来ますね。
このカテゴリーに「智慧(知識)」という言葉を使いましたが、そこにはある思いがありました。それは、この知識を増やそうとする人間の欲望は、結局のところ真実とは平行線をたどることになるからです。なぜなら、知識はどこまで行っても真実を細分化することをやめないからです。
人間がもし、意識のもとで真実への回帰を果たせることが出来るとすれば、それは今まで蓄え、習得した知識を無化させる智慧が働くときなのです。
知識を捨てる智慧が私たちには必要なのですね。
ところで前回、人は受容によって世界を観ている以上、その世界は自分の人間性を超えられないという話をしました。そのことを理解することで、私たちは最高の価値である神に出合う道筋が見えてくると言いましたが、この続きは新しいカテゴリー「五次元宇宙に生きる(神)」を設けて進めてみたいと思います。
神という言葉は、私たちの心の中で大きな場所を持っています。様々な神がいて、人々を救い、しあわせに導いてくれる存在でしょう。地上にはおそらく無数の信仰の対象があるのではないかと思われます。
この多様性は、人間が持っている一つの共通の問題を物語っています。
つまりそれは、人間が認識する力を身に着け、世界を分割して名前を付けながら知識を膨らませてきたことによります。
世界に意識の光をあてることで、私たち人間は宇宙の摂理から独立したのです。人は「知る」という新たな能力のもとで、この宇宙の摂理に対して、意識的に理解し、意識的に近づいて行く、永遠の旅人となったわけです。
アリの社会は、何の疑いもなく本能のままに集団社会を営みますが、私たち人間はそうはいきませんね。常に「よし」・「あし」の判断を私たち自らが下さなければならなくなった。そこに「神」を生み出す必要があったのです。
そして何より「神」は、私たち人間の、真実(宇宙の摂理)に対する受容だということを忘れてはいけないのです。
(初めて読まれる方へ: この物語は、愚書のしてんてん系宇宙論を 解説したものです。この解説は2016年1月6日付け記事から始めていますので、カテゴリー(五次元宇宙に生きる(空間))の同日付け記事から読んでいただくことをお勧めします。なお、本は有償でもお譲りしますが、「のしてんてん系宇宙論」 のページにあります本の画像をクリックしていただくと、自力でプリントできますので、無料でご利用いただけます。)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます