縄文人(見習い)の糸魚川発!

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北斎に学ぶ「こだわらない」流儀・・・2022年11月時点の古代風の勾玉首飾り

2022年11月20日 22時52分13秒 | ぬなかわヒスイ工房
昨年に商品化した「古代風首飾り」は、ありそうでなかった新しい勾玉の仕立て方との反響はあったが、なにか腑に落ちないところがあった。
8㎜玉の時代
 
最初は勾玉の間に直径10㎜のウッドビーズをはさんでいたので、8㎜、6㎜と小さくしていったらスッキリしてきたが、ここまでに1年かかって変化している。
 
12月に個展が決まったので、さらなる改善をと丸玉の両端に細長いソロバン玉も入れてみたら、かなり具合がいい。
5㎜玉に変えて、管玉かわりにソロバン玉を追加!本当は弥生時代の首飾りのように、青碧玉の管玉や水晶の切子玉をいれればいいのだが、お世話になっている某大学教授から、購入者が古物と偽って転売する恐れがあるから売っちゃダメ!と釘をさされておるのです(笑)
もっとよくなりそうだぞと、最小サイズの5㎜玉を取り寄せ、木綿紐の太さも変えて組み替えたら大正解だった。
勾玉を魅力的に仕立てるのは、音楽でいったらアレンジに相当する仕事。
 
これで一応の完成はみたが、それも現時点ではという意味で、来年は変わっているかも知れない。
 
往年の名曲も時を経て、アレンジを変えて歌い継がれていくのと同じだが、わたしは北斎の浪の描き方の遍歴を思う。
 
30代のころの北斎は、線描だけで「お化けのQ太郎」が並んでいるような躍動感のない浪を描いていて、巧いとは言い難い。
しかし何十年もかけて浪の躍動感を追求し続け、70代にして「神奈川沖浪裏」にたどり着き、躍動感のみならず、浪の透明感や絵画の物語り性を描くことに成功している。
 
つまりは北斎という人は、評価や技法に「こだわり」のない人で、現状に満足せずに高みを目指し続ける求道者であり、これが数ある号のひとつである「画狂人」たる所以だ。
 
北斎が「こだわり」のある人だったのなら、西洋絵画の技法をとりいれたり、「神奈川沖浪裏」の浪の青に、伝統的な「群青」を使わず、当時は輸入品で高価だった、化学合成顔料の「プルシャンブルー」で描いた説明がつかないではないか。
 
「こだわり」とは、現状維持の状態と私は捉える。古武術の用語なら、動けない・固定化しているという意味の「居付いている」状態。
 
成功体験にとらわれず、もっとよくなるのでは?と満足することはないから、ヒスイ加工法は固定的ではなく、毎回のように違う。
 
「古代風首飾り」が、今後どうなっていくのか、わたしにも予測がつかない。だから面白い。
 
 
 
 

同じ失敗を繰り返す日本の組織・・・「大本営参謀の情報戦記」

2022年11月20日 07時08分57秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
戦前の日本は情報収集と分析を軽視し、必敗の太平洋戦争を自ら開戦してしまった。
 
幸か不幸か、明治期に大国相手の日清・日露の戦争に辛勝した結果、皇国史観にもとづく精神論ばかりが重視され、無敗皇軍神話が喧伝されたのが昭和のはじめ。
 
日露の陸軍もそうだったが、昭和の帝国陸海軍はいちど作戦が成功すると、同じ作戦を何度も繰り返すことを米軍の情報将校らが分析して、裏をかかれてはの失敗を繰り返していたので、米軍も日本軍の硬直性に飽きれたというのは有名な話し。
 
「大本営参謀の情報戦記」の著者の堀中佐は、ミッドウエイ開戦の後に情報参謀に任命されたが、情報課の仕事は欧米の雑誌を翻訳して報告書を作成するだけで、分析されることもなく、作戦に反映されることもない閑職であることに愕然とする。
 
そこで日米両軍の作戦履歴と暗号電文の解読を独自に取組んだ結果、米軍の作戦を次々と的中させるようになり、「マッカーサーの参謀」と称賛されるようになる。
 
そして南方諸島で採用されては玉砕をくりかえしていた「水際作戦」から、「洞穴陣地で持久戦」へと転換させ、山下泰文大将をはじめとした南方軍指揮官から信頼されるようになった。
 
 
ポツダム宣言受諾後に、対独戦に勝利したソ連が兵力を満州に移して侵攻する情報もあったそうだが、堀中佐が「奥の院」と批判する大本営作戦課が情報を握りつぶしたことが、怒りをもって書かれている。
 
同じ大本営陸軍参謀本部といっても、実質は作戦課が唯我独尊で軍隊を動かすエリートで、情報課は軽んじられていたのだ。
 
都合の悪い情報は隠蔽する日本の組織のありようは今も変わらないが、もしソ連の侵攻情報が日本軍を統帥する「大元帥」たる天皇まであげていたら、30万人とも50万人とも推測されている在留邦人がソ連軍の暴力に曝されることもなかったかも知れなし、その後の中国残留孤児問題もおこらなかったかも知れない。
 
天皇と鈴木内閣は、極秘裏に和平交渉の仲介をソ連に依頼するプランを進めていたくらいだから、ソ連軍の満州侵攻は晴天の霹靂だった。
 
天皇は絶対の現人神であり、余の命令は天皇の命令であると将兵を死地に追いやっていた作戦課のエリート軍人たちこそが、最大の不忠者・国賊だったのだ。これが当時からいわれていた「昭和の陸軍の下剋上」
 
そして満州事変からの15年戦争を主導し、国家をミスリードした大本営作戦課の軍人たちは・・・戦後に自民党議員、自衛隊の幕僚、大企業の役員になったりと、それぞれ栄達している。