Mars&Jupiter

おおくぼっちの屋根裏部屋へようこそ!

和田町の祭りの日、モートン・グールド、そしてフォール・リヴァー伝説

2007-08-25 07:00:35 | 古典~現代音楽北アメリカ編
昨日は、横浜から和田町まで歩いた。
和田町駅周辺は年に1回の祭りが行われていて、
屋台が立ち並び、多くの人たちで賑わっていた。
途中聴いた曲は、1913年生まれのモートン・グールドの作品。
ニューヨークで生まれの彼は、指揮者としても活躍した。
「ラテン・アメリカン・シンフォネット」は、1941年に作曲された。
タンゴは、やや悲しげな感じを漂わせる。
グァラチャは、キューバの音楽を使った作品で、
金管楽器・木管楽器が活躍するリズミカルな曲だ。

1948年に作曲されたフォール・リヴァー伝説も、
ところどころでダンス音楽が取り入られ、
アメリカらしい部分を持った現代的な作品。
曲はプロローグとワルツ、エレジー、教会での集い、賛美歌変奏曲、
コティヨン、エピローグの6曲から構成されるが、
4曲目の賛美歌変奏曲がなかなかいいし、
5曲目のコティヨンはダンス音楽を使いながら、
現代的なアレンジで、軽快に音楽が流れて、おもしろい。

それにしても、フォール・リヴァー伝説は何か。
1892年8月4日にマサチューセッツ州にある
フォール・リヴァー近くの邸宅で
リジー・ボーデンという女性の父と継母の死体が、発見された。
娘のリジーが殺人容疑で告発されるが、
証拠不十分で無罪となった謎の事件だ。
だからこそ、音楽も最後は謎を残したまま、
突然予告なく、不思議な感じで終わるのである。
残虐な手口の殺人事件の真相は闇に葬られたが、
リジーは継母を憎んでいたし、
資産をめぐるトラブルがあったこと
などの状況証拠を考えれば、
一目瞭然の気もするんだけれどね。
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コープランドの「アパラチアの春」を聴きながら横浜から星川まで歩く

2007-08-23 23:42:47 | 古典~現代音楽北アメリカ編
今日は、横浜から星川まで歩いた。
途中聴いた曲は、1900年生まれのコープランドの作品。
彼は、ニューヨークで生まれ、若い頃にはパリに留学した。
バレエ組曲「アパラチア」は、1945年に作曲された。
8つの部分からなり、ダイナミックな作品で、
アメリカらしく、若い開拓者たちの婚礼の様子が描かれる。

コープランドの作品は、とても現代的な響きの中で、
アメリカらしさを表現しているのでいい。
そのアメリカらしさとは何かというのを言葉で表現することは難しい。
音楽はめまぐるしく場面を変えていき、聴き手を飽きさせない。
春のおぼろげな感じは出ていると思う。

もちろん、今は夏なので、その春の感じとは大きく違う。
照りつける太陽の日差しは強く、おぼろげどころではない。
でも、最近その季節を十分に感じないうちに、
仕事が忙しいせいか、季節が変わっている気がする。
そう考えると、季節というものを、
もっと身近に感じないといけないのかなとも思う。
それにしても、アメリカの管弦楽曲には、
自然をテーマにしたものが多い。
雄大な自然を目の前にして、
作曲家として音楽で表現したかったのだろうなあ。
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ミッチェルの「ケンタッキー山の肖像」、そしてシャリヴァリ

2007-08-22 22:53:29 | 古典~現代音楽北アメリカ編
今日は、ウォーキングを休みました。
横浜を歩き始めようとした時に大粒の雨が降り出した。
これは雷雨かと思い、電車に乗ったのだが、
天気はここで思わぬフェイントをみせてくれた。
雷雨になるのかと思い電車に乗ったところ、
結局、雨はやんでしまったのだ。

今日とりあげる曲は、1893年生まれのミッチェルの作品。
彼は、ミシシッピのイッタ・ベナで生まれ、
イーストマン音楽学校で作曲と理論を教えたようだ。
CDの解説書によるとピアノと理論をパリ音楽院で学んだようだ。
「ケンタッキー山の肖像」は1948年から、
1956年の間に作曲され、三つの作品からなっている。

第1曲「シンディ」は軽快な曲だが、
中間部がのどかな感じで、コラール風になるが、
再び軽快な曲にもどり、華やかに終わる。
第2曲「バラード」は、民謡風の曲で、
オーボエなどが奏す旋律が、哀愁を漂わせている。
第3曲「シヴァリー」ということなのだが、
それはシャリヴァリ(Charivari)から来ているそうだ。
音楽自体は軽快で、どうもシャリヴァリのイメージからは遠い。
ただ、最後は騒々しい感じで終わるので、
そのあたりがシャリヴァリということなのだろう。

シャリヴァリは、「どんちゃん騒ぎ」と訳されたりするが、
それは、適切な表現とは言いづらいところがある。
CDの解説書では、フランスで60歳代の女性が、
17歳の若者と結婚した時に、
このシャリヴァリという慣習が行われたことを
ミッチェルが書いているようだ。
アメリカでもシャリヴァリが行われただろうが、
とにかく、ミッシェルはそのシャリヴァリを経験したのだろうか。
もちろん、彼の活躍した時代に
シャリヴァリは存在しなかった可能性が高い。
なぜならば、シャリヴァリは19世紀で
ほぼヨーロッパから姿を消したからである。
ちょっと、自分の研究分野に入っちゃったかなあ。
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マクダウェルの組曲第二番「インディアン」を聴きながら

2007-08-21 22:56:26 | 古典~現代音楽北アメリカ編
今日は、横浜駅から星川駅まで歩いた。
途中で聴いた曲は、1860年生まれのマクダウェルの作品。
彼は、ニューヨークで生まれ、10代にフランスに渡り、
CDの解説書によるとピアノと理論をパリ音楽院で学んだようだ。
その後ドイツへ行き、フランクフルトの音楽学校に入った。
そこでは、ヨアヒム・ラフに作曲を学んだようである。
1884年にマリアン・ネヴィンズと結婚し、
1888年にはアメリカに戻り、ボストンにしばらく移り、
そこでピアノ協奏曲第二番を初演した。

組曲第二番「インディアン」は、1895年に作曲された。
第1曲「伝説」では、インディアンの旋律に基づいているようで、
イロコイ族やオジブウェー族の曲を主題に用いているようだ。
悲劇的な感じの曲であるが、民族主義的な感じは受けない。
第2曲「愛の歌」は、アイオワ族の旋律を使っているようである。
ロマンティックで、ドヴォルザークの新世界を思わせる。
第3曲「戦いの時」ではイロコイ族の頭皮の踊りを使っているようだ。
インディアンが戦いの時の戦利品として相手の頭から
頭皮を剥ぎ取る風習があったことが関係している。
ここでなぜかドヴォルザークっぽい世界が感じられる。
第4曲「挽歌」はカイオワ族の女性の嘆きの歌から
主題が採られているようで、悲痛さを漂わせている。
第5曲「村の祭り」は、軽快でフィナーレらしい曲だ。
第1曲の「伝説」の旋律が使われるが、
最後の終わり方は、ドヴォルザークに似ている。

ドヴォルザークは交響曲第9番「新世界」を
1893年に初演したのだが、
その初演から4年後の1896年にマクダウェルは
この組曲第二番「インディアン」の初演を行った。
マクダウェルのいいところは、その主題としたのが、
実際のインディアンの旋律を使ったことだろう。
イロコイ族やオジブウェー族、カイオワ族、アイオワ族などの
旋律を使っていることだが、
聞いた感じはヨーロッパの音楽の方が優勢である。
でも、このようにインディアンの音楽の良さを
音楽にしただけでもマクダウェルの果たしたことは、
大きい業績なのかもしれない。
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トムソンの組曲「河」を聴きながら希望が丘駅から西谷駅まで歩く

2007-08-20 13:41:03 | 古典~現代音楽北アメリカ編
昨日は歩く時間がなかったので、
今日午前に希望が丘駅から西谷駅まで歩きました。
日差しが強いので、途中水分補給をしながら歩いた。
今日からはアメリカの管弦楽曲について触れたいと思う。
今日ウォーキングの途中で聴いた曲は、
1896年生まれのヴァージル・トムソンの作品。

組曲「河」は、記録映画に使われた音楽を、
演奏会用の組曲に直したもので、
民謡を用い、親しみやすい音楽になっている。
第1曲の古き南部では、色々な民謡が使われ、
バンジョーの楽器や進軍ラッパも登場し、
南北戦争が起きた時代を回想させる。
ホルンが「結んでひらいて」の節を
演奏するのがおもしろい。
第2曲ミシシッピ谷における産業の発展では、
「しあわせなら手をたたこう」の節が、
トランペットに現れたりし、突然不協和音になったり、
ハンマーの音などが聴こえたりするが、それは、
この地域が工業化していく様子を描写しているのだろう。
第3曲土地の侵食と洪水では、
物悲しい旋律がオーボエによって奏される。
工業化による環境破壊を嘆いているようでもある。
といいながらも、後戻りのできない現実の世界を
不協和音が表現しているようでもある。
第4曲終曲では、第1曲の旋律も登場させながら、
壮大なスケールの音楽が築かれていく。

一方、組曲「平原を耕す鋤」でもブルースなどの
民衆の中に浸透した様々な音楽が登場する。

親しみやすい民謡などを使いつつ、
一瞬雑音とも思えるハンマーなどの機械的な音を
音楽の中に加えるところが、彼の特徴なのだろう。
きっとこの辺は、パリ留学時代に交遊した仲間からの影響だろう。
特にサティの音楽を愛していたことを考えると、
サティのバレエ「パラード」などの音楽から
影響を強く受けたようにも思えるのである。
それにしても、工業化などによる環境の変化を
取り上げて音楽にする作曲家としてはおもしろい存在だ。
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