「馬鹿野郎。事実を嫉むな。お前が博史のことまで心配する必要はない。それだけのことだ」
我ながらよくもこう憎々しげに言えたものである。車内が息苦しかったのである。私の袖を掴む手の力が抜けた。
私が雪音をひどく侮辱したのは確かである。そんなとき、雪音は決して憤慨を顕わさない。抗議もしない。いつでも俯いて未完成の石膏像のように死んだ目をするのである。おそらく生まれてこのかた間断なく降りかかってきた数々の苦難に対し、俯いてやり過ごすしか彼女には術がなかったのであろう。
「そうね」
喉にこみ上げてきたものを抑えて、彼女は一つ深呼吸する。
「そうね。私は邦広さんの家族とは何の関係もないものね。赤の他人なんだもの。最初から、最後までね。見て。船」
雪音が指差す沖合いを、漁船が横切りつつあった。青黒い海の波間の小さな漁船。一年以上経った今も、私はそんな些細なことまで覚えているのだ。雪音がそのとき指差したからであろう。船は白波を長く曳いていた。まるで大海原を二つに仕切る作業でもしているように。だが、とそのときの私は思った。だが、そうだとしたら実につまらない作業である。どれだけ丹念に線を曳いても、どうせすぐに消える。船は去り、青黒い海は残る。渾然たるものは渾然としたまま残るのである。
我々はまたしばらく沈黙した。波の音を聞き、風の音を聞いた。
傍から見れば、まるでそれは始まりすら迎えていない未成年の男女のようであったろう。実際のところは終わりを迎えた大人であった。大人の女は涙を拭った。弱々しくも、微笑みさえした。
「わかったわ。別れましょう」
(つづく)
我ながらよくもこう憎々しげに言えたものである。車内が息苦しかったのである。私の袖を掴む手の力が抜けた。
私が雪音をひどく侮辱したのは確かである。そんなとき、雪音は決して憤慨を顕わさない。抗議もしない。いつでも俯いて未完成の石膏像のように死んだ目をするのである。おそらく生まれてこのかた間断なく降りかかってきた数々の苦難に対し、俯いてやり過ごすしか彼女には術がなかったのであろう。
「そうね」
喉にこみ上げてきたものを抑えて、彼女は一つ深呼吸する。
「そうね。私は邦広さんの家族とは何の関係もないものね。赤の他人なんだもの。最初から、最後までね。見て。船」
雪音が指差す沖合いを、漁船が横切りつつあった。青黒い海の波間の小さな漁船。一年以上経った今も、私はそんな些細なことまで覚えているのだ。雪音がそのとき指差したからであろう。船は白波を長く曳いていた。まるで大海原を二つに仕切る作業でもしているように。だが、とそのときの私は思った。だが、そうだとしたら実につまらない作業である。どれだけ丹念に線を曳いても、どうせすぐに消える。船は去り、青黒い海は残る。渾然たるものは渾然としたまま残るのである。
我々はまたしばらく沈黙した。波の音を聞き、風の音を聞いた。
傍から見れば、まるでそれは始まりすら迎えていない未成年の男女のようであったろう。実際のところは終わりを迎えた大人であった。大人の女は涙を拭った。弱々しくも、微笑みさえした。
「わかったわ。別れましょう」
(つづく)
これからも興味深いお話を読ませて頂きます。
(エピクロストア派・阿是より)