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この宇治川は、鵜飼の観光でも有名。シーズンになると篝火を焚いて鮎漁(鵜飼)をする光景を見ることが出来る。(写真が貼ってあった。)
喜撰茶屋の近くから宇治川の中州に架かる喜撰橋。この橋を渡って中州(島)へ。「宇治公園」である。
(上)喜撰橋。
宇治公園:時計は13:25時を指している。ここでの予定時間は14:40時までなので、「宇治川先陣の碑」などを見ながら、宇治神社まで歩く。
(上と下)宇治公園にある「浮島十三重石塔」:
柿本人麿の和歌:もののふの八十氏河(やそうじかわ)の網代木(あじろぎ)に いざよふ波の行く方(え)しらずも この歌は、柿本人麿が近江国(滋賀県)より奈良へ帰る途中に、宇治川付近で作った歌で、「宇治川の網代木で一時停滞し、やがて行方知らずとなる波のように、滅びさった近江の都に仕えていた人々はいったいどうなったのであろうか」という意味である。網代は秋から冬にかけて魚をとる仕掛けのことで、杭(くい)を川の中に上流に向かってV字型に打ち、杭の間に竹等で編んだ簀(す)を張り、氷魚(ひうお=鮎の稚魚)を取るもので、この網代に用いる杭を網代木という。 平成4年10月 宇治市
宇治公園を歩いていたら、突然吹雪いてきた。鳩が餌が貰えると思ってか沢山寄ってきた。
宇治川先陣の碑:古代より水陸交通の要衝であった宇治は、幾多の合戦の舞台となり、なかでも、寿永3年(1184)の木曽義仲と朝廷から義仲追討の任を受けた源義経の戦いは有名です。天下の激流を挟んだ両軍の決戦は、義経軍の名馬「するすみ」に乗った梶原景季(かげすえ)と名馬「いけつき)に乗った佐々木高綱の「先陣争い」で幕を切って落としました。先陣は策にたけた高綱がとり、義経軍が一斉に渡河して義仲軍を打ち破りました。この碑は、その故事に因んで、昭和6年(1931)に建立されたものです。
宇治川先陣の碑:橋合戦から4年の後、同じ源氏どうしの木曽義仲の軍勢と義仲追討の義経軍が宇治川を挟んで対峙。義経軍の梶原源太景季(かげすえ)と佐々木四郎高綱が先陣を争って渡河した。高綱は馬の腹帯がゆるんでいると景季に教え、景季が腹帯を締め直している間に渡河して先陣の名乗りを上げた。景季が源頼朝に所望した名馬「生唼(いけずき)」を高綱に与えられたことから、高綱は頼朝に先陣を約束していたのである。宇治川に浮かぶ橘島にその碑がある。[以上、山と渓谷社発行、見延典子著「『平家物語』を歩く」より]
![P1870171 P1870171](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/96/1d83ab95bfca094d6b60b753baaa7bf8.jpg)
宇治川中州の宇治公園
平等院の観音堂/扇の芝方面から宇治公園(橘島)に架かる橋(「橘橋」と思われる。)
(上)宇治公園(橘島)から宇治神社/源氏物語ミュージアム側に渡る橋