しまなみ海道の道中、「平山郁夫美術館」に立ち寄りました。
画伯が、しまなみ海道「生口島」の出身であることを、初めて知りました。
平山郁夫画伯の絵に出会ったのは、たぶん、高校時代の頃の院展だとか、その周辺だったのでは…と思います。「仏」をその心に持つ、どこか深く印象に残る、心の奥深くまで浸透してくるような絵だったのでした。
その後、シルクロードだとか、三蔵法師の辿った路を精力的に旅をされているらしい…といった情報と、数点の作品しか知らなかった。
求法高僧東帰図
先にも書いたように、私は「庵治」という小さな漁村で11~13歳の時代を過ごしました。ここに行くには、峠をひとつ超えなくてはいけないので、高松に隣接しながら、「陸の孤島」…という時代が長く続いていたようです。母の時代には、高松に行く主な交通手段は船だったとか。バスは鋪装されていない山道をガタガタと激しく揺れながら走るのです。小さい頃、何度が乗りましたが、心細く、とんでもなく遠いところへ行くような感覚でした。
ここに祖母の家がありました。海沿いの通りから1本奥まった通りにあった「小屋」のような家。
小さな庭。電話もなく。汲み取りトイレ。手水。物置き。土間を改造した台所。8畳と4畳の和室。
これだけの小さな古い家。
私は、当時そこからバスで高松の小学校に通っていたので、(さすがにその頃は舗装されていましたが)「村」の子供達とは全く付き合いがなく、休みの日はいつも独りでした。母は仕事。祖母は結核で入院中。
長い夏休み、毎日海辺を自転車に乗って、いくつも坂を越えたところにある砂浜で石投げをしたり、観音さまが祀られている洞窟の中に長い間佇んでいたり。バケツと柄杓を持って、岸壁にいって、クラゲを捕って遊んだり。
ここから見る瀬戸田の町並みは、当時の庵治ととてもよく似ています
祖母が退院し、母が再婚し、妹が生まれてからは、「小屋」はさすがに狭すぎるので、10m先が海、裏が資材置き場という環境の、メゾネット式のアパートに越しました。ここでも2階の部屋の窓から、毎日毎日、瀬戸内海を眺めて暮らしました。
高校生になってから、私は受験のレッスンのために、一人で高松~大阪を定期的に日帰りするようになりました。
「宇高連絡船」が、当時の本州へ渡る主な交通手段。
朝は、飛沫の白い尾を引いて行き交うフェリー、夜は漁り火を眺めながら、デッキで潮風に吹かれながら瀬戸内海を渡るのです。
それらが私の見ていた海の風景。いつもひとりで見ていた瀬戸内海。
独りだからこそ、瀬戸内海は私のいちばん近くに在ったのでした。意識することもないほどに。
瀬戸大橋が開通して、初めて電車で橋を渡ったとき、青い海の上に美しく連なる橋の白い曲線と、これまでとは全く違う目の高さから瀬戸の海を見下ろして、初めて「瀬戸内海」を自分の意識ではっきりと感じて、涙が出てきました。
これが私を育んだ瀬戸内海。そして讃岐平野。なんという恵みに満ちた豊かな場所なんだろう…
大学時代の夏、友人達と千葉や伊豆の海に行ったとき、「これがホントの海だ、大洋だ」と、感動したものでした。そして、瀬戸の海をどこかで侮蔑するような思いを抱いたこともあったものでした。
私が身近すぎて意識しなかろうが、軽んじようが、忘れ去っていようが、瀬戸内海は太古から静かで豊かなままでそこに在るのでした。
けれども、橋の上から瀬戸の海を見下ろす時間ははあっという間に終わってしまうのでした。
平山郁夫美術館では、「しまなみ海道六十景」が開設されていました。
画伯を育んだ瀬戸内海の島々への思い、全アジアを渡りながら創作活動を続けてきたアーティストとしての視点と思い、それらを表現した絵と画伯自身による文章が、私の瀬戸内海への思いや、私自身がこれから行く先への思いとぴったりと重なりながらなおもひたひたと静かな満ち潮のように寄せてくるのです。
「天かける白い橋 瀬戸内しまなみ海道」
解説不能。
夢中でメモをとりました。
「恐らく橋の長さに比例して、斜張の角度や橋脚の高さが構造的に割り出されるのだろうが、機能が進めば美を発揮する原理が、自然と人工の美しさを奏でている。」
「日没の一瞬、真っ赤に染まった空や海の中に、逆光の因島大橋が浮かんでいる。その中を、島影に太陽が入っていく。美しい大自然である。自然と科学技術の織り成す美の交響楽である。」
「橋のない時は、目の前にしながら近くて遠い存在だったが、島が島でなくなっても、島の個性を保ち続けなければと願いながら渡る。」
画伯が、しまなみ海道「生口島」の出身であることを、初めて知りました。
平山郁夫画伯の絵に出会ったのは、たぶん、高校時代の頃の院展だとか、その周辺だったのでは…と思います。「仏」をその心に持つ、どこか深く印象に残る、心の奥深くまで浸透してくるような絵だったのでした。
その後、シルクロードだとか、三蔵法師の辿った路を精力的に旅をされているらしい…といった情報と、数点の作品しか知らなかった。
求法高僧東帰図
先にも書いたように、私は「庵治」という小さな漁村で11~13歳の時代を過ごしました。ここに行くには、峠をひとつ超えなくてはいけないので、高松に隣接しながら、「陸の孤島」…という時代が長く続いていたようです。母の時代には、高松に行く主な交通手段は船だったとか。バスは鋪装されていない山道をガタガタと激しく揺れながら走るのです。小さい頃、何度が乗りましたが、心細く、とんでもなく遠いところへ行くような感覚でした。
ここに祖母の家がありました。海沿いの通りから1本奥まった通りにあった「小屋」のような家。
小さな庭。電話もなく。汲み取りトイレ。手水。物置き。土間を改造した台所。8畳と4畳の和室。
これだけの小さな古い家。
私は、当時そこからバスで高松の小学校に通っていたので、(さすがにその頃は舗装されていましたが)「村」の子供達とは全く付き合いがなく、休みの日はいつも独りでした。母は仕事。祖母は結核で入院中。
長い夏休み、毎日海辺を自転車に乗って、いくつも坂を越えたところにある砂浜で石投げをしたり、観音さまが祀られている洞窟の中に長い間佇んでいたり。バケツと柄杓を持って、岸壁にいって、クラゲを捕って遊んだり。
ここから見る瀬戸田の町並みは、当時の庵治ととてもよく似ています
祖母が退院し、母が再婚し、妹が生まれてからは、「小屋」はさすがに狭すぎるので、10m先が海、裏が資材置き場という環境の、メゾネット式のアパートに越しました。ここでも2階の部屋の窓から、毎日毎日、瀬戸内海を眺めて暮らしました。
高校生になってから、私は受験のレッスンのために、一人で高松~大阪を定期的に日帰りするようになりました。
「宇高連絡船」が、当時の本州へ渡る主な交通手段。
朝は、飛沫の白い尾を引いて行き交うフェリー、夜は漁り火を眺めながら、デッキで潮風に吹かれながら瀬戸内海を渡るのです。
それらが私の見ていた海の風景。いつもひとりで見ていた瀬戸内海。
独りだからこそ、瀬戸内海は私のいちばん近くに在ったのでした。意識することもないほどに。
瀬戸大橋が開通して、初めて電車で橋を渡ったとき、青い海の上に美しく連なる橋の白い曲線と、これまでとは全く違う目の高さから瀬戸の海を見下ろして、初めて「瀬戸内海」を自分の意識ではっきりと感じて、涙が出てきました。
これが私を育んだ瀬戸内海。そして讃岐平野。なんという恵みに満ちた豊かな場所なんだろう…
大学時代の夏、友人達と千葉や伊豆の海に行ったとき、「これがホントの海だ、大洋だ」と、感動したものでした。そして、瀬戸の海をどこかで侮蔑するような思いを抱いたこともあったものでした。
私が身近すぎて意識しなかろうが、軽んじようが、忘れ去っていようが、瀬戸内海は太古から静かで豊かなままでそこに在るのでした。
けれども、橋の上から瀬戸の海を見下ろす時間ははあっという間に終わってしまうのでした。
平山郁夫美術館では、「しまなみ海道六十景」が開設されていました。
画伯を育んだ瀬戸内海の島々への思い、全アジアを渡りながら創作活動を続けてきたアーティストとしての視点と思い、それらを表現した絵と画伯自身による文章が、私の瀬戸内海への思いや、私自身がこれから行く先への思いとぴったりと重なりながらなおもひたひたと静かな満ち潮のように寄せてくるのです。
「天かける白い橋 瀬戸内しまなみ海道」
解説不能。
夢中でメモをとりました。
「恐らく橋の長さに比例して、斜張の角度や橋脚の高さが構造的に割り出されるのだろうが、機能が進めば美を発揮する原理が、自然と人工の美しさを奏でている。」
「日没の一瞬、真っ赤に染まった空や海の中に、逆光の因島大橋が浮かんでいる。その中を、島影に太陽が入っていく。美しい大自然である。自然と科学技術の織り成す美の交響楽である。」
「橋のない時は、目の前にしながら近くて遠い存在だったが、島が島でなくなっても、島の個性を保ち続けなければと願いながら渡る。」