涅槃図
昨日は父の四十九日の法要でした。
父の自宅で、親族だけで行われた法要。
この地域では、お坊さんのことを「お寺さん」とか「おじゅっさん」と言います。
2回の休憩をはさんで3回に分けてお経をあげてくださるのですが、私は、その合間とか、読経のあとに、なんか、仏教のありがたいお話?をお聞きすることができるかなーと、
ちょっと楽しみだったのであります。
いろいろと、この際だから、お聞きしてみたいこともあったし…
しかし。
お寺さんと弟が、仕事やら生命保険の話や、正座のしびれは辛い…とかいう話ばかりして、
故人の思い出話なども全く出ず、なんだかな~~っていう法要となりました。
せっかく父の満中陰に集まったのに、これじゃな~~~
もう、年も明けて、普段の生活に戻ってるからこそ、いまいちど、父を偲んで、いろいろ語ったり、浄土真宗の「満中陰」の考え方についてお聞きしたりしたかったんだがな~~
不完全燃焼?の私は、家に帰って、PCで、浄土真宗について、検索しまくりました。
そして、とてもおもしろいことを発見したのであった。
浄土真宗にもいろいろ派閥があるのですが、とある西本願寺系サイトで
「お釈迦さまは、『人間は生死を輪廻することはなく、この世界のご縁の尽きた時は、涅槃に入る』と教えてくださいました。ですから、中陰の思想は本来仏教の思想ではありません。」
…とゆ~のだ!!そんなん知らんかったぞ。
「涅槃に入る」とは、すなわち、キリスト教でいうところの、死の瞬間に神さまの御手に掬い取られる…みたいなこととすごく似てるかも。
「中陰」(生と死・陰と陽の狭間)の思想ってのは、人は死んだら、冥土の旅をして、四十九日まで1週間ごとに裁きを受けて、四十九日目に次に生まれる行き先が決まるっていうヤツね。
お線香を絶やさず、お経をあげることで、故人は迷わず極楽浄土への旅ができるのだとか、、、
ほな満中陰はいったいなんなんだ!!
ひとつには、(故人ではなく)遺族に対して、親戚や知友が集まって、お悔やみやお見舞いの言葉を述べ、故人を偲ぶ行事として勤める。
それから、大切な人を亡くしたことで、人生が無常であることを実感するのがこの時。
平素は人ごととしてしか聞いていなかった仏教に心の耳を傾けることができる。
中陰は本来仏教の思想ではないが、この機会にぜひ仏教に出遇うことを願って、中陰の法事を続けてきた。
そうしたとき、故人を単なる死者としてではなく、「人生の真実を教えてくださる諸仏」として受けとめることができる…ということらしい。
う~~ん、そうなのか。
ほな、信心深かった父は、この世の縁の尽きた瞬間、涅槃に入ったのか。
浄土真宗では、「霊魂」の存在も否定していて、お盆のときだけ家に帰ってきて、子孫の供養を受けるような存在ではないとのこと。
しかし、これらの「習俗」を、遺族、また広くこの世に生きている人びとのために受け入れ、現世に生きている人が、仏の道に接する機会を広げるためにやってんだ、、、
じゃ~いったい「輪廻転生」の思想はどこからきたのじゃ??
またまたTAKAMIの検索は続く…
…って、ご存じの方がいらしたら教えてください(^_^;)
でっ、父に話を戻しますけど、その後、納骨。お墓の石を動かしてお骨を納めたけど、そこには、何十年も前の祖父、祖母、それから叔母のお骨が納められていて、お墓の中って、なんか冷たくて寂しくて、こんなとこに入るの…ヤだなって感じ。
こんなとこにお父さんが入るんじゃないよね。ここにいるのはお父さんじゃない。
父は「千の風」…だ、、、
人は死んだらどこに行くのか、それは生きている人にはわからない。
真の宗教というものがあるのだとしても、その周りには、人々の死を恐れる思いや、迷いから、いろんな習俗習慣が生まれて、いつの時代も、どこの世界でも、それらが絡まりあっているのだろうなあ…
ってことで、本日はこれ以上まとまりませんので、終わり。