ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

今週の細々したこと 2010.9.5(日)~9.11(土)

2010年09月11日 22時05分34秒 | 日記2005-10
皆様こんばんは。

●9/5(日)
【演】O夫妻結婚式披露宴
  

●9/6(月)
・まだ暑い
 週が空けたらさすがに暑さは収まるだろうと思いきや、まだ暑い。

●9/7(火)
・かぜひいた

●9/8(水)
・死の恐怖 ~鼻水で窒息

・ダウン
 午前中は起き上がれず、午後から出勤。薬のおかげで鼻水とくしゃみはおさまったが、少し熱がありボヤッとして過ごす。

●9/9(木)
・回復

●9/10(金)

●9/11(土)


(まだ書きかけ。。。)

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【本】心は量子で語れるか

2010年09月11日 15時06分11秒 | 読書記録
心は量子で語れるか 21世紀物理の進むべき道をさぐる, ロジャー・ペンローズ (訳)中村和幸, 講談社ブルーバックス B-1251, 1999年
(THE LARGE, THE SMALL AND THE HUMAN MIND, Roger Penrose, 1997)

・「人間の精神的活動を科学的に説明する」 この非常に興味がありながら、いわゆる "似非科学" に類すると見なされがちな問題について、世界一流の有名科学者が真向から挑み、物議を醸した書。第一部では宇宙、量子力学、人間の心について自説を語り、第二部では三人の科学者(アブナー・シモニー(ボストン大学名誉教授)、ナンシー・カートライト(ロンドン大学社会科学部教授)、スティーヴン・ホーキング(ケンブリッジ大学ルーカス記念講座教授))との対話を収録する。
・著者の主張する「心の発生の量子力学的説明」には結局ついていけず、その理解は中途半端のまま。もちろんまだ本書でその結論に至っているわけではなく、その考え方のエッセンスは205ページの書き抜きに凝縮されている。かなりの期待を抱いて手にした本だったが、それに応えるほどの驚きは無かった。
・「果たして現代物理学――特に量子力学――には、人間の意識について語る資格があるだのだろうか? ペンローズ自身は、現在の量子力学は不完全だと考えており、それをより精密なものにすることによって、人の魂の成り立ちを説明できると主張している。もちろんこの主張には数多くの批判が寄せられているが、さまざまな機会をとらえて、ペンローズは自己の立場を擁護している。」p.5
・「本書に収録されたホーキングの考えを読んでもわかるが、彼はペンローズの構想を絵空事くらいにしか見ていない節がうかがえる。」p.6
・「なお原題にあるように、本書では宇宙と量子と人間の心を扱っているが、意識は無数の量子によって生じるというペンローズの意を受けて、邦題では『心は量子で語れるか』とした。」p.7
・「私が物理法則の記述を二つに、すなわち宇宙(the Large)と量子(the Small)の二つの章に分けることにした理由はいくつかあるが、その一つは、大スケールの振る舞いを支配する法則と、小スケールの振る舞いを支配する法則が、非常に異なるように見えることである。この二つの振る舞いがかなり違って見えるという事実と、この 見かけ上の 差異をどう理解しなくてはならないかが、第三章の話の中心になる。なお第三章では、人の心(the Human Mind)が登場する。」p.29
・「つまり数学者たちは、物質的世界の方が、("時間を超越した")数学的世界から出現したと考えたいのである。」p.31
・「私たち人間は、存在のはかなさをしばしば口にする。しかし図一-四に示された人間の寿命を見ればわかるように、決して私たちがはかないということはないのである。そう、私たちはおおよそ宇宙自身と同じくらいに長生きなのだ!(中略)言いかえると、人間の寿命を何倍かして宇宙の寿命にするときの、その乗数は、プランク時間(または最も短い素粒子の寿命)を何倍かして人間の寿命にするときの乗数よりも、はるかにずっと小さい。このように私たち人間は、宇宙においては非常に安定した構造体なのである。  空間的な大きさに関して言えば、私たちは全く中間的な存在であって、広大な宇宙の物理も微少な素粒子の物理も、直接的には経験できない。」p.34
・「おもしろいことに、人が夢中になるような幾何学的問題の分析や結果には特有のエレガントさがある。逆に、この数学的なエレガントさをもたないような分析はいずれ消え失せてしまうだろう。」p.71
・「大ざっぱに言うと、エントロピーは系の無秩序さを表す量である。この概念をさらに正確に表現しようとすると、"位相空間" の概念を導入しなければならない。  位相空間は膨大な数の次元をもつ空間であり、この多次元空間の各点は、問題としている系を作りあげている全粒子の位置と運動量を記述している。」p.78
・「そこでは、現に私たちが住む宇宙と少しは似ている宇宙が誕生してきた初期条件を示す非常に小さな一点を、神様が位相空間の中に見つけようとしている。その一点を見つけるために、神は10^10^123("^" はべき乗)分の一の精度で、位相空間中の一点を突き止めなければならない。宇宙に存在する各素粒子の上に0を一つずつ置いたとしても、なお、10^10^123という数字を完全に書き下すことはできないだろう。これは途方もない数字なのである!」p.88
・「量子力学は、物事が生じる際の基本的性質として大きく関与していると、私は信じている。」p.139
・「物質から精神が生じるという考え方には根本的な問題がある、と私は思う。この問題で哲学者が頭を悩ませるのは当然のことである。  私たちが物理学で論じるのは、物質や質量の大きい物体や素粒子、さらに空間や時間やエネルギーなどである。この物理学と、私たちの感覚、すなわち色を知覚したり幸福を感じたりすることとが、どんな関係にあるのだろうか? 私は、それは一つの神秘だと思っている。」p.153
・「"意識(consciousness)" とは何か? 残念ながら、それを定義する方法を私は知らない。私たちは意識とは何かを知らないのであるから、今は、その定義を試みる時ではないと思う。意識は物質から導きうる概念だと私自身は信じているが、そのことを定義しても、おそらく誤ったことを定義する結果になるだろう。」p.159
・「ゲーデルの定理が示しているように、自然数の性質を私たちが理解できるのは、規則によるわけではない。自然数が "何であるか" を理解することは、プラトン的世界と接触することである。」p.185
・「第二章で私はOR物理学という新しい形式が必要だと主張した。そしてOR物理学が適切であるならば、周囲から十分に隔離されて、量子的に重ね合わされた質量移動が可能となるに違いない。管内部では、何か超伝導体のような、或る種の大規模な量子的干渉が生じているのだろう。この活動が(ハメロフ型の)チューブリン構造と結びつき始めたときにのみ、おそらく顕著な質量移動を伴うはずだ。ここでは "セル・オートマトン" の振る舞い自体が、量子的重ね合わせの影響を受けるかもしれない。」p.205
・「ペンローズの研究計画について、次の三つの根本的な主題に私は賛同している。第一に、精神は科学的に扱えるということ。第二に、量子力学の考え方は、心と体の問題に適用できるということ。第三に、潜在的可能性の実現という量子力学の問題は、量子的形式主義を修正しなければ解決できない、正真正銘の物理上の問題であるということ。」p.222 by アブナー・シモニー
・「基本的にペンローズはプラトン主義者で、唯一の物理的実在を記述する、唯一の観念の世界が存在すると信じている。一方、私は実証主義者で、物理理論は私たちが構築する数学モデルにすぎないと思っているし、また物理理論が実在に対応しているかどうかを尋ねるのは無意味で、それらは単に観測結果を予言するかどうかだと考えている。」p.260 by スティーヴン・ホーキング
・「ペンローズの第三の主張は、意識をもつ心は計算できないことをゲーデルの定理が暗示しているので、どういうわけか客観的収縮が必要になるというものである。言いかえると、意識は生物にとって何か特別な存在であって、コンピュータではシミュレートできないと、彼は信じているのである。意識が客観的収縮によってどのように説明されるのか、ペンローズは明らかにしなかった。むしろ彼の議論は、意識は神秘であって量子重力はもう一つの神秘であるので、両者は関連があるに違いない、というもののように思えるのだ。」p.262 by 同上
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【社】西長沼神社(長沼・西7線南)

2010年09月11日 08時04分07秒 | 参拝記録
西長沼神社(長沼・西7線南) 参拝日 2010.2.11(木) [Yahoo!地図]

・碁盤の目状に走る農道の中を、斜めに幹線道路(道道3号線)が突っ切っているために出来た三角形の空地に、赤い屋根の社がポツンとたっています。
 
・境内の脇を通る農業用水路。水路を挟んだ向こう側には西長沼小学校が。
 
・境内に近づくと、銀色の鳥居と社号標が見えてきました。
 
・境内正面より。こちらも雪が深く、除雪車が除けていった雪の山を乗り越えて行かなくてはなりません。
  
・鳥居をくぐってからの眺めと、両脇にたつ石灯籠。
 
・社の前にある簡素な手水場。
 
・社の前より。サッシの扉は閉まったままで、中の鈴には手が届かなかったような。雪が深かったので、あまり周囲を歩くことができませんでした。

・社の前から後ろを振り返った図。
・とここで、腰のケースに下げていたコンパクトデジカメ(Ricoh GX200)がいつの間にかケースごと姿を消していることに気づく。「どこかで落とした!?」 主に【外食記録】の料理の写真がみっちりと詰まったデジカメを紛失し、青くなって雪の中をダッシュ。元来た道を辿ることに。結局、『長沼第26区神社(仮称)』→『八幡神社』→『天照皇大神社』→『八幡神社』と四つ遡った神社の鳥居の下で、雪に埋もれたカメラを発見。落としたのはわざわざ雪深い場所を選んで突撃したことが原因でした。無事カメラが見つかったということはお参りの御利益があったということなのか、そもそも落とすことがツイていないのか、なんともビミョーな一件でした。

[Canon EOS 50D + EF-S17-55IS]
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