ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【写】横浜中華街(横浜・山下町)前編

2011年02月25日 08時00分05秒 | 撮影記録2010
横浜中華街(横浜・山下町)前編 撮影日 2010.5.6(木) [HomePage][Yahoo!地図]
・『行きあたりバッタリ横浜散策』は、当日昼に予約した桜木町のホテルに一泊し、一夜明けた早朝より引き続き横浜の散策を開始。まず向かった先は、昼間は混みそうな中華街。
 
・JR石川町駅で電車を降り、駅を北口から出ると、早速目の前に「中華街」の看板がかかった極彩色の門が現れました。
  
・門をくぐって振り返ってみると「西陽門」の文字が。線路伝いに歩くことしばし。
 
・行く手の通りを挟んだ向こう側に次なる門が現れました。
  
・こちらの門にも「中華街」の文字。この門は「延平門」で、緑を基調にした色使いです。
  
・門をくぐって中へ。まだ中華街らしさは感じられない風景です。
  
・少し歩くと、派手な店構えが目立ち始めます。
  
・変形交差点の一角にたつ『善隣門』。こちらがテレビなどで紹介される有名な場所でしょうか。同様の門がこんなにあちこちにたっているとは知りませんでした。
  
・それにしても見事な造りの門です。観光地にありがちな安っぽさは感じられず、本場の『故宮博物院(紫禁城)』の装飾と見比べても遜色無いほどです。
  
・門の裏に回って見上げた図。額には「親仁善鄰(隣)」の文字。
 
・門をくぐると、もうその先はバリバリの中華街です。
  
・早朝のため人気も無く閑散としていましたが、昼には大いに賑わうのでしょう。
 
・大通から脇にのびる小道にも飲食店がびっちり。これだけの中華料理店があって、皆共存できているというのがとても不思議に感じます。マクドナルドなどのファーストフード店は、さすがにこちらには入ってこれないのでしょうか。
(中編に続く)

[Canon EOS 50D + EF-S17-55IS]
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▲閉店【食】66DINING 六本木六丁目食堂 [洋食@東京・六本木]

2011年02月24日 22時02分05秒 | 外食記録2011
▲閉店 営業の気配無し [2020.1.7記]
66DINING 六本木六丁目食堂(ろくろくだいにんぐ ろっぽんぎろくちょうめしょくどう)[洋食@東京・六本木][グルメウォーカー][食べログ]
2011.1.5(水)17:00入店(初)
注文 ハンバーグのトルコライス 1350円+ドリンクセット(コーヒー)200円

  
・地下鉄駅から続く地下道より六本木ヒルズの地上へ抜ける、大きな円形の吹き抜け『メトロハット』内の最下層の一角にある洋食店。『六本木六丁目』とはこちらの六本木ヒルズの住所を指すようです。
  
・レトロな雰囲気をかもし出す店内はイス席が大小あわせて約15卓。

・メニューはオムライスやハンバーグなど洋食の定番メニューがあれこれ。概ね千円越えと、やや高めの価格設定。三種の味を味わえる『長崎洋食トルコライス』を注文。
  
・一皿の上にハンバーグ、ナポリタンスパゲティ、ピラフ、サラダが乗っています。
  
・懐かしい味のするスパゲティ、目測80gのハンバーグ、しっかりバターとガーリックの風味がするピラフ。いずれも卒の無いファミレス風の味。

・スパゲティを食べていると、どうしても粉チーズが欲しくなり、店員さんにお願いすると持ってきてくれました。
 
・食後のコーヒー。特に印象に残らず。
・給仕の女の子がやたらとかわいらしく、そして親切でした。NHK朝の連続テレビ小説のヒロインが似合いそうな爽やかさに、「さすがは東京……」と意味不明の感心をしてしまいました。<2011年【外食記録】看板娘部門> 暫定第1位。

   
[Canon PowerShot S90]
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2011年 今年の目標

2011年02月24日 19時03分53秒 | 日記2011-15
 どういう心境の変化なのか、昨年末より「2011年の目標はどうしよう……」と考えていてもサッパリ思い浮かばず、とうとうネタが尽きてしまった模様。過去に挙げた目標で未達成のものを寄せ集めてリサイクルをしては、とも考えましたがそれも気が進まぬまま月日はあっという間に流れてしまいました。そうこうしているうちにふと閃いて、思い至ったのが以下の目標です。

<2011年 今年の目標>

●よく学び、よく遊び、よく眠る

 今でも忙しいつもりで過ごしていますが、この先年を経る毎に自分の自由になる時間が年々失われていき、数年後から振り返ると「あの頃は好きなことがやれていてよかったなぁ……」などと溜息をついているのではないかと、そんな未来が心に浮かびます。そんな時に「あの頃もっと精一杯やっておけば……」などと後悔しないよう、何でも精力的に(しかもバランスよく)取り組んでいけたら、という思いを込めての目標です。「演奏会を○回以下に抑えて……」などといった安全装置は取り払い、やれることは全部やる!! 博士号取得から約2年を経て、ようやくそのダメージから回復したということでしょうか。休眠期間はそろそろ幕引きに。
 「自分の限界はどこか?」 そんな誰もが抱く問いへの答えを求めつつ、遅ればせながら2011年を開始。
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【社】本牧神社(横浜・本牧和田)

2011年02月24日 08時01分02秒 | 参拝記録
本牧神社(横浜・本牧和田) 参拝日 2010.5.5(水) [HomePage][Yahoo!地図]
 
・横浜市本牧を走る幹線道路沿いに本牧和田公園があり、200mほど歩いてその公園を抜けた先に神社の境内が現れます。
 
・境内入口の鳥居と社号標。

・『本牧神社本殿遷座に際し』と題した由緒書き。結構な長文です。800年を越える歴史を持ち、この地に落ち着いたのは平成五年(1993年)のこと。主祭神は『大日靈女貴命(おおひるめむちのみこと)』(天照大神の別名)で、その他多数の神々が祀られています。
 
・「さて社へ」と、石段を上ろうとすると「夜間立ち入り禁止 ご参拝はここから遥拝してください」の看板が。「ええっ!? そんなぁ~」とびっくりするやら落胆するやら。この程度の規模の神社で時間制限があるとは珍しいです。しかも時刻はまだ夕方5時前だというのに。その気になれば簡単に脇をすり抜けて中に入ることもできましたが、トラブルが起きても困るのでそのまま引き返すことに。

・こちらの社殿は横浜最大級の大きさを誇り、末社もいくつかあるそうです。しかし見えたのはその一部のみ。

・駐車場の一角にはシートに包まれた船が。神事用のものでしょうか。
 
・今回直接の参拝はならず、朝から歩きどおしでガタガタになった足を引きずってバス停に向かう。
・これにてランドマークタワーから始まった『行きあたりバッタリ横浜散策』の第1日目は終了。

[Canon EOS 50D + EF-S17-55IS]
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【食】BRASSERIE PAUL BOCUSE Le Musee [洋食@東京・六本木]

2011年02月23日 22時02分39秒 | 外食記録2011
BRASSERIE PAUL BOCUSE Le Musee(ブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ)[洋食@東京・六本木][HomePage][国立新美術館][食べログ]
2011.1.5(水)11:00入店(初)
注文 本日のランチセット 1800円 +コーヒー380円

  
・東京六本木の国立新美術館にて展覧会を鑑賞後、美術館に付属のレストランで食事をとることに。美術館の広大なロビーの真ん中にたつ、巨大な逆円錐の台の上に店舗があります。
  
・案内されたのは円錐の縁に沿ってずらりと並んだテーブルの一席で、いかにも美術館といったしゃれた雰囲気です。席数は正確には分かりませんが大小あわせて少なくとも30卓はありそうで、かなりの広さ。目の前はガラス張りの壁面で、日の光がさんさんと差し込みます。
 
・テーブルセッティング。こちらはフランスに本店を置く、東京を中心に展開するフランス料理のチェーンの支店です。"Restaurant" よりも気軽に料理を味わうことのできる "Brasserie" という位置付け。入口のメニューを覗き、いちばん簡単なランチセットが1800円だったので、「この値段なら」と入店。

・メイン料理『豚ロース肉のロースト リヨン風グラタン添え ソース・シャルキュティエール』
   
・メインとデザートのみの簡単なセット料理なので、いきなりメイン料理が登場。目測約150gの豚肉ステーキ。マスタード風味のする白ワインソースがかかり、卒の無い味。付け合せのグラタンには大きなマカロニとチーズが入っています。味とともに量的にも上品で、丼いっぱいかきこみたい気持ちに。

・背景に黒いリュックが入り、台なしになってしまった写真例。背景など、実はあれこれ気を遣いながらの撮影です。
 
・付属の棒状のパン。表面はカリカリで、手でちぎるとパンクズでかなり散らかってしまい、食べるのに難儀しました。パンだけやたら多く感じましたが、他のレポートを見ると、二名の場合も同量のようです。また店員さんより「フランス産の特製バターを500円でお付けできますが……」とのお勧めもありましたが、「バターが500円!?」と動揺しつつも丁重にお断りしておきました。

・デザート『"ムッシュ ポール ボキューズ" のクレーム・ブリュレ』
  
・クレーム・ブリュレは大きな皿で登場しますが、その厚みは目測8mmほど。店の雰囲気から想定内の量だったので、特に驚くことも無く。
  
・デザートが出てきたときに、店員さんからの「別料金で飲み物もお付けできますが……」との言葉を聞き、飲み物も当然付いているものだと思っていた私は、「うわっ! やられたー!」と心の中で絶叫。しかし表面上は平静を装い、「じゃあコーヒーお願いします」とそのまま注文。よっぽど値段を確認しようかと思いましたが、妙な見栄心から聞くことができず、「700円くらい取られたらどうしよう……」とドキドキしながらコーヒーをすする。結果、380円と普通の値段でホッとしましたが、二千円以内で済むと思っていた代金が思わぬ形でかさんでしまい、ちょっと釈然としない気分に。コーヒーは、テーブル上でポットからついでもらう形で、味のバランスがよくなかなか美味しいコーヒーでした。カップは、取っ手に穴の無い変った形状をしていましたが、これが意外にも持ちやすくできており、その造りに感心してしまいました。
・食事中に見かけた客は私の他に一組のみと、明らかに客よりもスタッフの方が多く、「こんな客の入りで大丈夫なのだろうか」とちょっと心配になるような店の様子でしたが、年始の平日の早い時間帯でたまたま空いていただけなのでしょうか。

  
[Canon PowerShot S90]
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【本】ローマ人の物語 21・22・23 危機と克服

2011年02月23日 19時01分59秒 | 読書記録
ローマ人の物語 21・22・23 危機と克服(上)(中)(下), 塩野七生, 新潮文庫 し-12-71・72・73(7782・7783・7784), 2005年
・古代ローマの長大な興亡記。前巻の皇帝ネロの時代に引き続き、今回はガルバ(在位 紀元68~69年)、オトー(69年)、ヴィテリウス(69年)、ヴェスパシアヌス(69~79年)、ティトゥス(79~81年)、ドミティアヌス(81~96年)、ネルヴァ(96~98年)、の7皇帝、約30年間の様子を描く。
・これだけ話が長くなると、そろそろ何が何だかわからない状況に。カエサルの時代を頂点にして、その後は話のグダグダ感が強くなる一方です。それでも全15集のうちの第8集めと、ようやく中間点に来たところ。まだまだ先は長い。
・「また、危機とは常にネガティブな現象か、という疑問だって生じてくる。まずもって人間には、自らが生きた時代の危機を、他のどの時代の危機よりも厳しいと感じてしまう性向がある。そのうえ、ローマの歴史とて、すべてが良い調子で進行したから興隆し、その後はすべてが悪く進んだから衰退したのではない。ローマ人とは、紀元前753年の建国以来、幾度となく襲ってきた危機を克服していくうちに興隆を果たした民族なのである。」上巻p.19
・「ローマ人の歴史とは、「危機と克服の歴史」と言い換えてもよいとさえ思う。  ただし、興隆途上の危機とその克服はさらなる繁栄につながったが、衰退期に入ると、危機は克服できても、それはもはやさらなる繁栄にはつながらなくなってしまう。危機は克服したのになぜそれはさらなる反映につながらなかったのか、への答えの追求こそが、ローマ帝国の滅亡の要因に迫ることではないかと、この頃では考えるくらいだ。」上巻p.21
・「勝敗を分けたのは、ヴィテリウス側の指揮官たちの力量がオトー軍の将たちの力量をしのいでいたからではない。ローマ軍では最強と評判の高い「ライン軍団」の兵士たちの戦闘力を見せつけて、混成軍のオトー軍を圧倒したのでもなかった。同胞相手に戦うことへのためらいが、オトー軍の兵士たちのほうにより強かっただけである。」上巻p.109
・「古代のローマでは、四十代から五十代が男の盛りとされていた。」上巻p.121
・「それでも断ったのは、ローマ人は、自分たちの間では争っても、それに他国を引き込むまではしないことでは一貫していたからである。マリウスとスッラのときも、カエサルとポンペイウスの時代も、アウグストゥスとマルクス・アントニウスのときも、他民族を巻きこんだ例は皆無だった。紀元69年のこのときも、三人とも、断るのに迷いもしなかったと確信する。」上巻p.144
・「戦闘という人類がどうしても超越できない悪がもつ唯一の利点は、それに訴えることで、これまで解決できないでいた問題を一挙に解決できる点にある。」上巻p.181
・「あらゆる分野でラテン語使用を強要しなかったローマ人だったが、軍隊内の用語だけはラテン語で統一している。出身部族がちがう兵士が潜入しても、ラテン語で話すかぎりは言語で露見する危険はなかった。」中巻p.50
・「(ユダヤ民族の)特殊性の第二は、彼らがすこぶる優秀な民族であることだった。支配者から見れば、優秀な民族のほうが支配しにくいのである。優秀でなければ、底辺に押さえこんでも反抗する能力も気力もないからだ。」中巻p.85
・「敬虔なユダヤ教徒がよく口にするのは、次の一句である。「唯一神のみが、われわれの主人である。その神を奉じた政体の国家の樹立にこそ、われわれの自由は捧げられるべきなのだ。ゆえに、この自由のないところでは、死さえも取るに足らないことでしかない」  ユダヤ教徒にとっての自死は、彼らの考える「自由」が得られない場合のごく当然の帰結なのであった。」中巻p.114
・「ユダヤ人ほどではなくても、ローマ人だって迷信深かった。にわとりの餌のついばみ方がよければ、吉兆だと兵士たちは喜んだのだ。しかし、ローマの指導層は、共和政・帝政を問わず常に醒めていた。前日からにわとりに餌をやらないでおくようにと、陰では命じていたのだから。」中巻p.118
・「誰かが演出した、日本でいう "やらせ" だと思うが、これより四十年ほど前にイエス・キリストが行った奇跡も、盲人に視力を回復させ、いざりに立ちあがらせるのではなかったか。奇跡も、内蔵の病を治すなどというのでは不適当なのだろう。快癒のパフォーマンスも、はっきりと誰にも見えるたぐいでないと効果は見込めないにちがいない。ローマ皇帝ヴェスパシアヌスも、イエス・キリスト並みの奇跡を行ったことになる。」中巻p.150
・「ローマの武将たちの多くに共通する特色は、武人らしい見栄、ないしは虚栄心に無縁であった点である。彼らは、少数の敵を多数で攻めることに何のためらいもなかった。」中巻p.153
・「私が、指導者としてのヴェスパシアヌスの力量に最高点を与える気になれないのは、法制化しようと所詮は完全な解決などありえないことの、法制化を決行したからである。法律といえども、それを考えた人の人格を映し出さないではすまないのであろう。」中巻p.180
・「現代でも、都市ローマをイラスト一つで表現したいと思えば、誰でもコロッセウム(イタリア語ならばコロッセオ)をもってくるだろう。これを建設させたのがヴェスパシアヌス帝である。」中巻p.198
・「ローマ帝国の国家財政の詳細については、研究者たちの必死の努力にもかかわらず、現代に至ってもなおわかっていない。おそらくこれからも、明確になるのは望めないだろう。(中略)広く浅く取ることを目指した税制こそが善政の根幹であることを熟知していたローマの皇帝たちが、基本的にはシンプルな税制を維持しながらも個々ではケース・バイ・ケースで臨んだために、それらをすべて把握するに充分な資料が遺っていないからである。」中巻p.206
・「あるときに宮沢喜一氏と同席したので、この経済の専門家に、年来の疑問をぶつけてみたのである。ローマ帝国に比べれば現代の先進国はいずれも税率が高いのですが、なぜでしょうか、と。宮沢氏の答えは、社会福祉費のせいでしょうね、というものだった。  では、古代のローマには、社会福祉のための歳出はなかったのであろうか。」中巻p.211
・「ローマ帝国時代の首都ローマを復元した地図の中で、病院と並んで存在しないもう一つの大規模な公共施設は、学校なのである。」中巻p.220
・「このカエサル方式は、ローマ帝国が存在した間機能しつづける。医療と教育を民活にゆだねることで一貫したこの方針が、ローマの社会福祉費が国家財政を圧迫するまでには至らなかった要因ではないかと思う。要するにローマ帝国は、国家がやらねばならないこと以外の全ては民間に委託するという方針で一貫したがゆえに、現代でいう「小さな政府」を実現化できたのではないか。」中巻p.222
・「医療に関してのローマ人の考え方は、彼らの死生観に起因していたのではないかと思う。(中略)ローマ人は、自らの生命をいかなる手段に訴えても延長しようとする考えには無縁であったのだ。社会的にも知的にも高いローマ人になればなるほど、頭脳的にも精神的にも肉体的にも、消耗しつくした後でもなお生きのびるのを嫌ったのである。だからこそ、生命ある間を存分に生きる重要さを説いた、ストア哲学の教えが浸透したのではないかと思う。」中巻p.224
・「ローマ人は、寝台式の台の上にマットレス状のものを敷き、その上に片ひじでささえる形で横になった姿勢で食事をしないと、食事の名には値しないと考えていた。テーブルを前に椅子に坐って食べるのは、子供か奴隷の食事の仕方で、食堂に一室をさける程度の家に住む人の食事の仕方ではないと思っていた。ただし、こうもくつろぐ食事の愉しみ方は、ローマ時代でも夕食に限られていた。」下巻p.44
・「元老院による「記録抹殺系(ダムナーティオ・メモリアエ)」とは、元老院による報復措置ではなかったか。報復とはしばしば、理性ではなく感情の所産であることを忘れるわけにはいかないのである。」下巻p.60
・「歴史家ギボンは、ローマがなぜ滅亡したのかと問うよりも、ローマがなぜあれほども長く存続できたのかを問うべきである、と言った。多民族、他宗教、多文化という、国家としてはまとまりにくい帝国であったにかかわらず、なぜあれほども長命を保てたのか、ということのほうを問題にすべきだ、という意味である。だが、それに対する答えならば簡単だ。ローマ人が他民族を支配するのではなく、他民族までローマ人にしてしまったからである。大英帝国の衰退は各植民地の独立に寄るが、ローマ帝国では、各属州の独立ないし離反は、最後の最後まで起こっていない。」下巻p.69
・「ローマ人の考える「フォールム化」とは、四辺のうちの一辺には神殿を建て、残りの三辺のすべてを列柱回廊で囲むということである。列柱回廊の奥は店か事務所かに使われるのが通例のこの建築様式は、ローマ人が好んだ空間の利用法でもあった。」下巻p.75
・「考えてみれば、ローマ帝国全体が、共同体が考えて行うことと個人が考え行うことの双方で運営されていたように思う。国家としては未発達であるのかもしれないが、これで意外とよく機能していたのだから面白い。」下巻p.106
・「こうしてローマは、国境の外にもいくつかの友好部族をもつ政略をつづけていた。「分離し、支配せよ」の政略(ストラテジア)であった。  それゆえ、国境の外に住む部族の存在が脅威だったのではない。それらの部族が団結することが、脅威であったのだ。」下巻p.138
・「作家だからと言って勝手気ままに書くわけではなく、対象に選んだからにはそれについての調査と研究が必要になる。ゆえに、調査研究の必要度ならば学者も作家も差はないのだが、それに取り組む姿勢となると、学者と作家とではちがうように思う。そのちがいを一言で片づければ、学者には史料を信ずる傾向が強いが、作家は、史料があっても、それらを頭からは信じない、としてよいかと思う。」下巻p.142
・「学者ではない私自身の人間性への観方だが、ローマ史を書きつづけるに際して私が、自分の判断の基準にしたことが一つある。  それは、最高統治者である皇帝が成したことが共同体(レス・プブリカ)、つまり国家にとって良いことであったか否かを判定するにあたって、タキトゥスをはじめとする歴史家の評価よりも、その皇帝の後に続いた皇帝たちが、彼が行った政策ないし事業を継承したか、それとも継承しなかったか、のほうを判断の基準にすえたのである。  この「計器」を用いれば、ローマ史上最高の統治者は、何と言ってもやはりカエサルとアウグストゥスである。ローマ帝国とは結局、この二人が創ったのだ。ローマ人もこの二人だけを「神君」と呼びつづけたのだから、同感であったのにちがいない。」下巻p.143

《関連記事》
【本】ローマ人の物語 17・18・19・20 悪名高き皇帝たち(2009.10.20)
【本】ローマ人の物語 14・15・16 パクス・ロマーナ(2008.10.13)
【本】ローマ人の物語 11・12・13 ユリウス・カエサル ルビコン以後(2008.1.9)
【本】ローマ人の物語 8・9・10 ユリウス・カエサル ルビコン以前(2007.6.20)
【本】ローマ人の物語 6・7 勝者の混迷(2007.3.10)
【本】ローマ人の物語 3・4・5 ハンニバル戦記(2006.11.25)
【本】ローマ人の物語 1・2 ローマは一日にして成らず(2006.5.26)
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【社】亀の子石(横浜・本牧三之谷)

2011年02月23日 08時01分58秒 | 参拝記録
亀の子石(横浜・本牧三之谷) 参拝日 2010.4.3(土) [Yahoo!地図]

・前出『三渓園』から幹線道路沿いのバス停に向かう途中、気になる場所があったので立ち寄ってみました。三渓園の入口より100mほど離れた道路沿いです。
 
・家一軒分も無いような狭い敷地にたつ、赤くて小さな鳥居にかかった額には『亀の子様』の文字。鳥居の脇には『亀の子石の由来』と題した看板が。

・敷地内にあった水盤。
  
・亀の子石の石碑。

・石碑の前にはタワシがいくつか転がっていました。亀の子石の本体とは、このタワシが乗ったデコボコの石を指すのでしょうか。

・石碑前より振り返った図。今回は神社に分類してよいのかどうか微妙な雰囲気の場所でしたが、一応【参拝記録】のカテゴリーへ。案外、神に仰々しい名など付かない方が、神社古来の姿なのかもしれません。

[Canon EOS 50D + EF-S17-55IS]
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【食】和風ダイニング 喜楽 [居酒屋@東京・新木場]

2011年02月22日 22時00分11秒 | 外食記録2011
和風ダイニング 喜楽(わふうだいにんぐ きらく)[居酒屋@東京・新木場][ぐるなび][食べログ]
2011.1.4(火)17:10入店(初)
注文 ビール+つまみいろいろ 二名で5千円弱

 
・東京の海際に位置する『新木場駅』の高架下のビルに入っている居酒屋。階段を上って二階になります。当初はこの向かいにある洋食店に行こうと思っていましたが正月休みだったため、たまたま目についたこちらのお店に急遽入ってみることに。

・BGMにジャズがかかり、こぎれいでやや高級な雰囲気の店内はカウンター約10席にイス席が10卓以上。その雰囲気からチェーン店なのかと思いましたが、そういう訳でもないようです。
 
・中ジョッキ(520円)、お通し(?円):メニューにビールの銘柄は明記されていませんが、おそらくスーパードライです。お通しは野菜の煮物。
  
・こだわり串揚げ お得な七本セット(880円):メニューを見ると、串揚げがメインのようなので、その盛り合わせを注文。内訳は海老、うずらの卵、レンコン、クリームコロッケ、串カツ、その他二本。好物であるクリームコロッケが美味しかったです。
  
・おでん(580円):特に "東京風" という感じも無く、北海道で口にするものと同じ具と味つけです。
 
・牛肉とキャベツの焼きそば ペペロンチーノ風(580円):油ギトギトの塩焼きそば。

・瓶ビール(中)(550円):二杯目からは瓶で。
  
・彩り海鮮丼(580円):"ハーフサイズ" というよりは "プチサイズ" といった印象。具の海鮮はマグロ、サーモン、ハマチの刺身が各約一枚分程度。

   
[Canon PowerShot S90]
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【写】三渓園(横浜・本牧三之谷)(5)

2011年02月22日 19時00分28秒 | 撮影記録2010
三渓園(横浜・本牧三之谷)(5) 撮影日 2010.5.5(水) [HomePage][Yahoo!地図]
・各地から歴史ある建物をかき集めた庭園散策もいよいよ最終回。
  
・庭園のかなり奥まった場所には藁葺き屋根の建物が。中にも入ることができましたが、人が多かったので止めておきました。

・『合掌造・旧矢箆原家住宅』 有名な白川郷から移した上流農家のお屋敷だそうです。
  
・こちらは『旧燈明寺本堂』。前出の三重塔も旧燈明寺のもので、それと対をなす建物です。
  
・柱や屋根の部分。こちらの園内の建物のほとんどは、余所にあったものを一度解体して復元したものです。現代の建物ではとても同じ真似はできそうになく、それを考えると不思議な気がします。
 
・園内に点在する観音像や石灯籠。
  
・池にかかっていた赤い欄干の橋の上より。
 
・池の中の陸地部分ではツツジが花を咲かせていました。
 
・橋を渡ってまっすぐ進むと、突き当たりに小さな社がありました。
  
・この社は『三渓園天満宮』。
 
・小さな社ですがなかなか造りが凝っています。屋根などはあまり見かけたことのない形。
 
・狛犬は向かって左の像が崩れて首無しの状態になっていました。

・社の隣にあった小さな観音像(おそらく馬頭観音)。
  
・園内をおおかた一巡し終わり、出入口を目指して歩く。

・池のほとりの藤棚の下には、足を休める多くの客の姿が。
 
・藤の花はつぼみが多く、まだ七分咲きといったところでしょうか。

・出入口に来てみると既に最終入園時刻は過ぎたらしく、窓口は閉まっていました。

[Canon EOS 50D + EF-S17-55IS]
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【写】三渓園(横浜・本牧三之谷)(4)

2011年02月22日 08時00分41秒 | 撮影記録2010
三渓園(横浜・本牧三之谷)(4) 撮影日 2010.5.5(水) [HomePage][Yahoo!地図]

・横浜の広大な庭園散策も後半戦へ。
 
・『三渓園案内図』 現在地は庭園のほぼ中央になります。庭園は大きく分けて内苑と外苑の二つに分かれており(図中の上下)、前回分までは内苑の様子が中心でしたが、今回からは外苑にある建物の紹介になります。

・池のそばの広場にあった看板。写真の銅像は何処にあるのだろうとキョロキョロ辺りを見回してしまいましたが、関東大震災で失われてしまったとのこと。
 
・『原三渓翁之碑』とそのそばにあった石板(碑文?)。絹の貿易により富を築き、この庭園を造った人物で、"三渓" は号で本名は "富太郎" とのこと。
   
・斜面の上へ向かってのびる散策路を歩く。園内には多くの観光客がいましたが、森の中に入ると途端に人の姿が消えて、辺りは静かになります。
  
・しばらく坂を上ると、岩に挟まれた狭い階段が行く手に現れました。
 
・散策路の橋までくると、突き当たりには過去『松風閣』という建物があった場所に展望台がたっています。
 
・階段を上った二階が展望台とちょっとした休憩スペースになっています。
 
・展望台からの眺め。木々の合間から海際を走る高速道路や工業地帯を見渡すことができます。
 
・展望台を後にして、引き続き森の中を歩く。
 
・道端にあった『出世観音』の像。
  
・展望台より山の尾根に沿って100mほど歩くと、目の前に大きな塔が現れます。園内の全てを見渡せる位置にたつ『旧燈明寺三重塔』。
  
・真下から見上げた塔の様子。記憶の中では五重塔のようにイメージしていましたが、実際は三重塔でした。
 
・塔の下より、斜面にジグザグについた階段を下りる。
 
・階段を降りるとあずま屋がありました。
 
・あずま屋『初音茶屋』の説明書き。かつてはタゴールや芥川龍之介もこちらでお茶を味わったそうです。
  
・森の中にひっそりと佇むお堂。

・『旧東慶寺仏殿』説明書き。
(続く)

[Canon EOS 50D + EF-S17-55IS]
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