「荒海や佐渡によこたふ天河」
この句は松尾芭蕉の俳文「銀河の序」に掲載されている。
日本海の荒波を隔てて、流人の島佐渡が島が横たわり、天の川がそのうえにかかっている。
七夕の夜だから空の二星〈牽牛・織女〉も年に一度逢うと言い伝えられているが、島に流された人々は、どんな思いで故郷を偲び、あの星を仰ぐのだろう・・と感慨にふけっている様が想像される
ところが別の資料では、芭蕉はこの時期に病気をしていて「荒海や佐渡によこたふ天河」は「奥の細道」では省略されているとされている。
新潟県の出雲崎に泊まった時に詠んだ句らしいがが、芭蕉は句を残しただけで出雲崎や佐渡については「 奥の細道」では何も触れ ていないという。
ことほど左様に後から編集された紀行文には事実と異なる部分がたくさんあるようだ。
現地を訪れたことのある方は、実際に残された記録に触れる機会もあるだろうから気づいた点があったらご教示いただきたい。
また、興味のある方は資料を精査して独自の見解をお示ししていただければありがたい。
>門人が一人もいない... への返信
ありがとうございます。
なるほど、そういう理由でしたか。
いやいや、歴史の先生たいした博学ですね。
納得がいきました。
私は、この事を、ずっと不思議に思っていたので、現地に行ってじっくりと考えてみました。
柏崎で、同行の歴史の先生にこの件についての意見を聞いて目から鱗でした。
先生によると、”越後の国には、芭蕉の門人が一人もいなかったから”が理由だそうです。
つまり、奥の細道では、行く先々で門人たちが待ち構えて接待漬けの日々で、また、旅費捻出のための句会も門人たちがセッティングしてくれました。
それなのに、越後国(新潟県)には門人は一人もおらず、ここでは芭蕉は無名でした。
そのため、芭蕉は何もいい思いをせず、早く金沢へ行きたくて、越後路については1行も書かなかった、というものです。(-_-;)