茨城県に五浦海岸〈いづらかいがん〉という場所がある。
岡倉天心のもとに集まった横山大観、下村観山、菱田春草らが日本画の美を極めようと切磋琢磨した北茨城市の景勝地である。
海水浴場にもなる砂浜には海風にもめげず松が枝を伸ばし、岩場を望む六角堂にこもると打ち寄せる波の音が思索を深化させるようだ。
天心は後に六角堂を日本美術院の本拠地にした。
横山大観のいわゆる朦朧体などは五浦で生まれたものである。
冬場はボストン美術館の中国・日本美術部長を務める天心は、夏場は五浦に戻って日本美術界の改革に注力した。
もともと日本美術品の研究・収集に造詣の深かったフェノロサの通訳を務めていた天心は、自らも日本美術の研究にのめりこむ。
弟子たちはみな家族とともに五浦で夏を過ごし、橋本雅邦ら若き天才画家たちが日夜日本画の可能性を追求した歴史的な場所である。
生活面で見ると基本的に食事は家族が調理したが、漁師の妻たちが補助的に賄いを手伝った。
新鮮な魚や貝を手籠で運び提供したのである。
あるとき漁師の女房に代わって一人の娘が配達した。
書生を務める一人の画学生がそれを受け取った。
偶然のふれあいから恋が始まった。
互いに好きと思う気持ちが先行したが、一方は書生とはいえ現役の東大生で漁師の娘とでは身分が違いすぎた。
しかし障害が大きければ大きいほど心は逸る。
書生は深夜宿を抜け出して六角堂近くの岩礁に行燈を置き、その明かりを目印に漁師の娘が通って逢瀬を重ねた。
やがて娘は妊娠し親の気づくところとなった。
親は娘の外出を監視し同時に日本美術院側へも状況を伝えた。
岡倉天心の耳にも訴えが届いたのかどうかまもなく書生は東京に帰された。
ある新月の夜、書生に捨てられたと思った漁師の娘は、悲観して入水自殺した。
新月の夜になると五浦海岸にボウっとした明かりが灯り、村人はみな漁師の娘が来ているなと噂し合った。
村長が漁師の娘を不憫に思い、寺の住職に頼んで海辺で供養の祈りをささげた。
以来、五浦海岸の不思議な明かりは見られなくなった。
娘の無念な思いも波間に沈んだのだろうと安堵した話が伝わっている。
〈おわり〉
流石はのりさん、天心の活動をよくご存じだったんですね。
お察しの通り書生と漁師の娘の悲恋など史実にはありません。
天心に付き従ったといわれる26名の弟子たちの業績や名声はある程度伝えられていますが、普段の生活面の話は全く空白です。
そこで天心さんらに迷惑の掛からない挿話の形で書かせていただきました。
いやはや、のりさんにはかないませんね。