どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

<おれ>という獣への鎮魂歌 (20)

2006-04-03 01:46:52 | 連載小説

 別れるまでには、紆余曲折があっただろうと、おれはミナコさんを思いやった。婚姻届まで出した関係を解消するには、想像もつかないエネルギーが要ったに違いない。
 いきさつを聞こうとは、思わなかった。ミナコさんも、こまごまと話そうとはしなかった。ひとたび時間を遡りはじめれば、山形から希望に満ちて上京した少女が東京という罠にかかって苦しんだ日々を、すべて再現しなければならなくなる。
「ひどい奴だ!絶対に許せない」
 おれは、義憤にかられて、うなり声をあげる。いま、目の前にその男がいたら、有無を言わさず殺してやりたいと思う。<ヒモ>と呼ばれる男たちの用意周到なたくらみを知って、同じワルでも最低の部類に属する悪党だと、歯軋りした。
 ミナコさんは、挫折はしたが自暴自棄にはならなかった。
 当時、結婚して横浜に住んでいた姉が、なにかと面倒を見てくれたこともある。田舎の父親は、世間体を気にしてミナコさんに厳しくあたったが、母親がひそかに蓄えておいた郵便貯金の通帳を書留で送ってくれて、ミナコさんの再出発をサポートしてくれた。
 上京時には、服飾関係の仕事にあこがれて、新宿駅南口に近い専門学校に通っていたのだが、今度は姉の奨めもあって御茶ノ水の会計専門学校に入学した。
「土地柄って、あるものよ」
 姉は、孟母三遷の教えという古臭い喩えを持ち出してきて、身を置く環境の大切さを説いた。「・・あそこなら、大学もたくさんあるし、堅い職種の会社もいっぱいあるわ」
 自分と同じように、エリートサラリーマンとの出会いを画策し、演出する打算も吹き込んだ。
 ひとより一年余分に時間をかけて、会計専門学校を卒業した。
 九段下にある自動車販売会社に就職したのが二十六歳、スタートが遅れた分、次々と寿退社していく女子社員たちの中で、仕事面での頭角を現していった。
 三十歳を超えると、経理に精通したオバサンと呼ばれ、信頼を得る代わりに、陰口の対象になることも多かった。何度か有った男性からの誘いを断っているうちに、勤続十二年のベテランになっていた。
 経理部で重宝に使われることには、さほどの抵抗も感じなかったミナコさんだが、後輩の男子社員からの嫌がらせは身に堪えた。後年、セクシャルハラスメントという考え方が定着して、女性の立場が保護されるようになったが、当時は、上司が尻を触るぐらいは愛嬌のうちで、言葉による遠まわしのいじめなど、嫌がらせの範疇には入っていなかったのである。
 そうした時期、出入りの取引業者のひとりであった自動車内装会社社長から、好条件で移籍の話が持ち込まれた。通常なら、渡りに船のタイミングで、喜んで引き受けるところだが、すべてのことに疑い深くなっていたミナコさんは、しばらく返事を保留した。
 喫茶店での再度の話し合いの際、ミナコさんが現在勤めている会社への義理立てを口にすると、その自動車内装会社社長は、長身を反らすようにして含み笑いをもらした。
「いやァ、あなたのそういうところが気に入ったんですよ。でも大丈夫、すでにおたくの総務部長には話を通してあります。わたしだって、ゴタゴタはいやですからね」
 ミナコさんが会社に戻って、それとなく話を匂わせてみると、総務部長はとぼけた顔を作りながらも、自動車内装会社社長の働きかけを暗に認めた。
(会社は、もう自分を必要としていない)
 そのことが、よく分かった。
 むしろ、会社全体が、尻に根の生えた古株の女子社員をうまく厄介払いできるかどうか、固唾を呑んで見守っている様子さえ感じられた。
 やっと決心がついて、ミナコさんは新たな会社に移籍することにした。
 引き抜かれた感覚はまったく無く、うまく譲渡されたとの印象が強かった。
 そうと決まれば、あとは条件を高めるだけだ。自動車内装会社社長の示す好条件に、いくつかの付帯要求を上乗せして合意した。
(ちょっと、図々し過ぎたかな)
 ミナコさんが、気後れするほどあっさりと契約が成立し、翌月から別の職場の人となったのである。
「そうなんだ。ミナコさんは、望まれてあの会社に就職したんだ。・・」
 おれは、経理の責任者として一目置かれているミナコさんの姿を、目に浮かべていた。
 一流企業でのキャリアに加えて、絶対的な信頼を寄せるに足る誠実さがある。あの自動車内装会社社長ならずとも、中小企業の経営にとって無くてはならない人材と認め、さまざまな手段で取り込みを図ったのも、うなずける経緯であった。
「ミナコさん、ジュース飲みませんか」
 おれは、布団を剥いで声をかけた。夏掛けであっても、身を寄せ合って頭からかぶっていると、先刻までの冷えが嘘のように全身が汗ばんでくる。
「なんだか、急に喉が渇いてしまって・・」
「たしかに、空気が変わったみたいです」
 ミナコさんの言うとおり、雷雨がもたらす気象の変化は、極端な寒暖の差となって、人を驚かせることがあった。
「電気を点けてもいいですか」
「ええ」
 微かな返事の気配を捉えて、おれは頭上の紐を手探りで引いた。
 灯りの下で、ミナコさんは膝を崩さずにいた。おれのワイシャツを着て、腰まで裾を垂らしていた。
 雨に濡れたブラウスは、ハンガーに掛けて干してある。下着類はどう処理したのか、シャツだけ貸してと頼まれた、その帰結がいまの姿だった。
 おれは、おれの着古したワイシャツに包まれて、ちょこんと坐っているミナコさんを美しいと思った。つい今しがた、おれに話してくれたミナコさんの過去は、決して彼女の負い目になるものではなく、むしろ悲しいまでに健気なおんなの生き方をさらして、おれの心を鷲掴みにした。
「バヤリースオレンジでいいですか」
 おれは、コップに注いだジュースを、ミナコさんに差し出した。
「ありがとう」
 ミナコさんは、手を伸ばしてコップを受け取った。その拍子にワイシャツの裾が割れた。正座する太腿の奥の翳りとその上の臍の窪みが、灯りの下に躍り出た。飾る必要のない人生が、ありのままの姿でおれの目の前にあった。

   (続く)

 


 


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