その夜のカミナリは、いったん去ったかに見えたが、夜半になって再び舞い戻ってきた。まれにみる規模の界雷であった。
おれとミナコさんは、またも電燈を消して、夏掛け布団を頭からかぶった。
そうやって二人で作った暗がりに潜んでいると、誕生の秘密に出会えるような不思議な感覚に包まれる。
退行催眠とは、このようにして導かれるものかもしれないと、おれは思った。暗がりの質は違っても、被験者をその中に誘導し、見え隠れする記憶の断片を拾い集めながら、川を遡らせるのではないか。
おれは、断続的に続くミナコさんの物語を聞きながら、いつしか、おれ自身の思い出を手繰りはじめていた。
何度も繰り返した仕事探しの雑な記憶の先に、上京するおれを見送ってくれた叔父との別れが、ぼんやりと浮かんできた。
叔父は、おれが電車に乗り込む寸前まで、胸に抱えた風呂敷包みを放そうとしなかった。おれは、叔父の気持ちを量りかねて、上目遣いにその人の顔を見た。潮風に焼けた目の縁に、涙が湧いていた。
「じゃあ、行きます」
おれは、深々と頭を下げた。如才ない言葉は出てこなかったが、養父として高校まで出してくれた叔父への感謝の気持ちは、この三年間変わらぬものとして胸の中にあった。
「おまえに仏の守りをさせるのは忍びないが、たった一人の家族として、兄貴も一緒に居たかろう。どんな嫁でも、おまえにとっては母親だ。両親ともに供養してやってくれ」
菓子折りよりも一回り大きい包みを、胸に預けられた。
木箱の角が、確かな実在感をおれに伝えてきた。この中に、両親が居る。そう思おうとしたが、煙のようにたゆたうだけで、形をなさなかった。
「困ったことが出来たら、電報をよこせ」
砂利を敷き詰めたホームに立つ叔父の姿が、一瞬窓枠に切り取られて、写真のように見えた。七尾の街をすっぽりと包む薄霧が、春とは思えない冷えを運んできた三月下旬の出発だった。
和倉温泉から帰途につく乗客で、電車の座席はあらかた埋まっていた。津幡で北陸本線に乗り換え、新潟と米原方面に分かれていく。そこから、さらに東京をめざす客と京都・大阪に向かう客もいるだろう。
おれは、パンパンに膨らんだズックのボストンバッグと、紫色の風呂敷包みを膝の上に抱えて、一時も休まらない気持ちで座席に埋まっていた。
途中で停車する駅名を確かめながら乗り換えに気を遣い、なかなか行き着かない上野駅に思いを馳せる。着いたら東京の一員になれるという予定が、どこかで狂ってしまうのではないか、自分だけが目的地に到達できずに、見知らぬ駅で立ち往生してしまうのではないかと、絶えず不安な気持ちにさいなまれていた。
「兄ちゃん、どこまで行くんや」
「そんなァ荷物抱えて、疲れてしまわんか。網棚に載せてやろうかい」
向かいの席の客が入れ替わり、声をかけられるたびに、おれは首を横に振ったようだ。
叔父から渡された父母の遺品は、位牌とともに桜の木箱に納めたまま、いまもおれの手元にある。
どこかの寺で供養をし、仏壇に位牌を安置できる日が来るかどうか、いまのおれには皆目見当もつかない。引越しのたびに押入れの奥へ押し込んで、心の闇に封印し続けてきたのだから。
さらに遡ろうとする試みは、そこで中断された。
そのとき、ひときわ大きな雷鳴がとどろいた。頭上を掠めた飛行機が、間近の屋根に突っ込んだような衝撃が、部屋全体を揺るがした。
「これは、近くに落ちたな」
おれは、ミナコさんの肩を引き寄せた。
ワイシャツの布地越しに伝わるミナコさんの体温が、ほどよい温もりを伝えてよこした。皮膚を通して交わされる会話のようなものだった。言葉を介さずに、おれたちの会話に仲間入りしたもう一つの手段が、雷鳴の下ではいま一番饒舌だった。
「たしか、落合に変電所があって、そこによく落ちるというよ」
「わたしたち、このまま死んじゃったら、後悔する?」
「いや、ぼくは、うれしいよ」
死という言葉を口にしたことで、ミナコさんがより深い愛情を求めているのが解った。
半ば遊びの、半ば本気の気持ちの吐露が、おれの欲情に火を点けた。
一度去ったはずなのに、またも舞い戻った激しい界雷が、おれとミナコさんとの間で目もくらむ稲光を走らせ、ギザギザの光跡を残して大地を焼いた。
「あっ、消防車がいく・・」
ミナコさんが、遠い声でつぶやいた。
おれも、サイレンの音が青梅街道を新宿方向へ走り去るのを聞いていた。豪雨を掻き分けて、眦を決した消防車が、一台、二台と飛んでいく。山手通りを左折して、高架をくぐれば現場は目の前だ。勝手に思い描いた深夜の街が、おれの目の中で余燼を上げていた。
「ねえ、わたし来たでしょう。あの男を置いて来たのよ」
もっと褒めてよ、と言いたかったのだろう。ミナコさんは、おれの下で駄々をこねるように体を揺すった。
おれは、ミナコさんの頭を撫でた。言葉で応じるのは、気恥ずかしかったのだ。
「あたり前みたいに、わたしを扱おうとするのよ」
おれがしゃべらない分、ミナコさんは饒舌になっていった。「・・だから、わたしは契約の解除を申し出たの」
自動車内装会社社長とミナコさんとの契約が、どんなものなのか、おれは知りたいとは思わなかった。二号と呼ばれる関係が、その契約に含まれていたとしても、おれは驚きもしなかっただろう。
要は、ミナコさんの心がもう、あの傲慢な男の上に無いとわかれば、おれは満足なのだ。どんなに肉体を蹂躙しようとも、心を手にすることの出来ない関係など、川に突き入れた棹のようなものだ。抜いてしまえば、水の流れに傷ひとつ残らないのだ。
「ミナコさんが、たとえストリッパーにされていたとしても、ぼくはミナコさんに出会って、いまと同じように愛し合っていたと思うんだ」
それが、前世からの運命なのだと、おれは、おれの手の中で形を変える乳房に、頬を寄せ、顔を埋めて、再び出会えた歓びを噛みしめていた。
(続く)
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