(松原遠く)
「敏彦さァ、あそこに一本だけ立っている松はなんで一本だけなんだろうねえ?」
九十二歳のヨシ婆が、眼脂のたまった瞼を眇めながら孫に訊いた。
テレビ画面には被災した陸前高田の海岸が映っていて、多くの人に愛されてきた高田松原が跡形もなくなくなっている惨状を目にしているところだった。
跡形もないという言い方が当たっているのかどうか、津波が攫って行ったあとの光景はさっぱりしすぎている。
一本残った松の枝ぶりの良さが際立っていて、感情を超えた喪失感に満ちていた。
(ばあちゃん、あの松がなんで残ったのか、俺にもわからないよ)
ヘリコプターから高台に降り立った為政者が、防災服の袖をはためかせながら一般人と大差ない感想を口にするのを画面の中で追っていた。
樹木も建物も電柱も選り好みせずに持ち去った津波の本性を前に、いまだ思考のまとまらない避難者が体育館に満ちていた。
物だけではない。・・・・恨みや悲しみも一緒に連れ去った巨大な力が、なぜあんなに美しい松を残したのだろう?
そこまで圧倒的に呑み込むなら、なんで一本の松だけ・・・・。
ヨシ婆さんと同様に、敏彦もテレビ画面に映る現実を眺め、そこから先へ考えをめぐらすことができないでいた。
為政者の視線を追ってズームされたレンズが、松林のいたるところで絡み合う折れた幹や枝の白い傷跡をあからさまにした。
(ああ・・・・)
高田松原の跡地に残された根株や木屑が、中断された生命の迸りを映し出していた。
気丈にも立ちつづけた一本の松も、よく見ると幹の途中に抉られた傷が付いている。
津波の直前まで共に樹林を形成していた仲間が、助けを求めて手を伸ばしたものの波に押されて接触した痕のようにも思える。
多くの人を憩わせた松林はすでになく、一本残った孤高の松も、薙ぎ払われた平地の上では傷痍軍人のように痛々しかった。
(あの人は、松原の方向に目をやっていたが、本当は何を見ていたのだろう?)
おそらく、ズームされた個々の傷跡とは違ったものを見ていたように思う。
観光案内で見たことのある高田松原の残像なのか、惨憺たる喪失の痛みなのか、どちらにしても人は自分が見たいものを視る。
認識とは、そういうものなのだ。
目を転じれば、住宅の柱や屋根、漁船、漁具、家財道具に自動販売機、ドラム缶、クレーン車、軽自動車などが浜を埋め尽くしている。
引きちぎられた生木も住民生活の痕跡も、ひと並べにガレキとして総括したのかもしれない。
だから今後は、山を削った高台に新しいコンセプトの安全都市を造ろうと発想した。
厄介物の瓦礫を寄せ集めて避難所にもなる丘を築き、もともとの浜へは自動車で通勤するという青写真を描いて見せた。
(ピンチをチャンスに変える!)
奮い立つ気持ちで、松原の存在した場所から深々と抉られ入江まで、そそくさと見渡したのかもしれなかった。
ヨシ婆は、亭主の遺影を流された。
居間の長押に飾ってあった常吉の写真は、出征当時の若々しい顔つきのまま再び出征していった。
結婚生活は、実質一か月にも満たない短さだった。
忘れ形見の一人息子を残してくれたことが、ヨシ婆の救いだった。
それから七十年間、ヨシ婆は後家を張りとおした。
息子は地元で水産加工業を経営していたが、工場ごと津波に呑みこまれて生活基盤を失った。
それでも、従業員ともども命を守れたことは幸運だった。
アルバムに貼ってあった家族の写真も含め、思い出の記録はすべて持って行かれた。
孫の敏彦が軽トラックで高台に避難させてくれなければ、ヨシ婆も津波に攫われたはずだ。
周囲の者は、とにかく命が保たれたことを喜んでくれたが、ヨシ婆は亭主の遺影と位牌を持って出られなかったことを悔やんでいた。
自分の身体のことより、亭主との絆を失くしたことが堪えていたのだ。
もうすぐお迎えが来る命よりも、生きた証の品々の方が数段大切だと思っているらしかった。
「敏彦さァ、おらあの松原にはよく行っただよ」
突然、結婚当時のことを語り出した。「・・・・手入れがよくできていてなあ、松の間から海が見えるんだわ」
いつ頃のことか石川啄木の歌碑もできて、人がたくさん集うようになった。
常吉と行ったのは一回きりだが、その時ふたりで松の根方に埋めた勾玉が心の支えとなっていた。
ヨシ婆の家に伝わっている翡翠の勾玉は、胎児の形をしているところから『子宝のお守り』と信じられてきた。
母親からも、「これを持っていると子を授かる」と渡された。
当時、村内一の秀才だった常吉は、横須賀の海軍通信学校で学んでいた。
故郷に帰省していた数日のうちに、後継ぎを考慮してあわただしく結婚式が執り行われ、その際ヨシがややこ(赤子)を身ごもった。
常吉が横須賀海兵団に入団し、横須賀から出港して行ったのは、それから半年後のことだった。
「常さんが生きて帰るまで、もう勾玉に用はないから・・・・」
出征する常吉に、終生の操を捧げる決意を示したものだった。
常吉が向かったのは、南東方面の拠点ラバウル海軍基地だった。
到着すると直ちに通信隊に配属され、休む暇なく電報の発信受信の任務に追われた。
基地内航空艦隊司令部をはじめとする関係部署への電報受け渡し、さらには通信傍受、暗号解析などといった高度な能力まで通信隊に求められている。
常吉としては、当面の任務をつつがなくこなすことに神経を集中した。
当時のニューギニア、ソロモン諸島では、米軍との激しい消耗戦が繰り広げられていて、敵機の来襲をいち早く知ることが攻防の焦点だった。
同じ基地内の陸軍では、密林を切り開いて浜側に電探(レーダー)を設置する仕事があったと噂に聞いた。
この時ほど、海軍にある立場を喜び、ほっとした気持ちになったことはない。
実際に、マラリアやデング熱で苦しむ兵士も少なくなかった。
常吉は、むしろ敵機の方をよしとしたが、最後は米軍機の爆撃に吹っ飛ばされた。
連合艦隊司令長官山本五十六が、ブーゲンビル島上空で撃墜された四か月後、昭和十八年八月のことだった。
ヨシ婆には、常吉の戦地での様子はほとんど届いていない。
もっとも、個々の出来事を吟味するだけの知識もなかったから、聞かない方がよかったのかもしれない。 (おらにとって、常さんと過ごした一か月だけが確かなものだ・・・・)
両家の親族だけで挙げた祝言、世間から隔絶された二人だけの夜。
恥ずかしさの中にも厳粛な儀式の延長を感じた初夜の感覚が、いまでも肌に刻みこまれている。
常吉の戦死が伝えられた後、他人は幾度となく再婚を勧めてきたが、ヨシは他の男にはまったく興味を示さなかった。
一人息子を通じて呼び覚まされる歓びは、結婚生活の短さを補ってあまりあるものだ。
高田松原の松の根方に埋めた勾玉は、いまも土中で二人の絆を守っているはずだった。
日も経ったある日、一向にはかどらない政府の救援策に苛立つ被災者、国民に向けて、新聞テレビも糾弾の発言を見せはじめた。
「安易にガレキと呼ぶ者がおりますが、そこで生活していた人にとってはガレキじゃないんですよね」
「だから、とうてい修復不能と思われる建物でも、黄色い旗を立てる被災者が多いのです」
「思い出の品、財産価値のある物、それらを回収する目的もあるでしょうが、心の整理がつくまでは瓦礫であってもガレキじゃないんですよ」
自治体が瓦礫撤去の目安につけさせた赤、黄、緑の旗を見ながら災害の真実にふれたコメンテーターの発言が、敏彦の胸に染みた。
復興の理想像を描く前に、まず現状の回復に手を差し伸べてほしい。
地震や津波から命からがら逃れてきた老人や病者を、避難先で死なせるような不合理を見せないでほしい。
被災地は、すべてがガレキになったわけではない。
個々の人、個々の犬、個々の猫、個々の牛、個々の馬、個々の豚、個々の鶏・・・・たくさんの生き物がそれぞれに生きているのだ。
まずは、そうした命の傷を治すことが先決ではないか。
為すべきことをパスし、すべてをブルドーザーで均すような復興計画は、人間不在・効率一辺倒の考え方ではないだろうか。
<世界の人に褒めてもらえるような東北>など、創ってもらわなくてもよい。
デザイン画の中の絵空事より、いま、現在、明日のことが大切なのだと、敏彦は心の中で呟いた。
敏彦の傍で、ヨシ婆がふと眠りから覚めて真顔になった。
「敏彦さァ、あの歌なんという歌だっけ・・・・」
「ばあちゃん、どうした?」
「ほれ、松原遠く消ゆるところっちゅう歌」
「ああ、それは確か『海』という唱歌だろ」
「なんだか恐ろしい歌だなやァ。白い津波の壁が迫って来るようで・・・・」
(白帆の影がばあちゃんの夢の中に乗り上げてきたのか?)
その先の歌詞は思い出せないが、最後のリフレイン部分だけは耳の奥で響いていた。
<見よ昼の海、見よ昼の海・・・・>
「敏彦さァ、おらトロトロした隙に、常さんが変なこと言うんだわ。七月七日に気をつけろって。なんのことだべな?」
ぶり返した寒さをさえぎるように、ヨシ婆は毛布を顔まで引き上げた。
(おわり)
たった1ヶ月しか一緒に暮らせぬまま戦地に消えた海軍兵士の夫が奇跡的に残してくれた息子と生きてきた生涯の最後に出会ってしまった800年に一回の巨大津波。
夫の死を知ったあと松林の松の根方に埋めた翡翠の勾玉は子宮であり胎児の姿で、二度と男を迎え入れぬという独りだけの密やかな誓い。
その松林は津波で跡形もなく消えてしまったけれど、なぜか一本だけ残った松ノ木が・・・。
そして老いた彼女と息子も怪物のような津波から生き残って、生き残った松ノ木を見ている。
なんという物語だ!
短いけれどなんというイメージの勁さ。なんという美しさ。
いいなあー
作者の創作力にまず感嘆しました。
あの大震災に絡めた小説が生まれるような予告(?)もありましたが、
こんなに素早くビビッドな物語を生みだしたなんて。
しかも、作者はその現場や松林を実際に見てきたようでもあります。
さらに、92歳の老婆を主人公に立て、太平洋戦争中に亡くなった亡夫のことも絡める。
涙なくして読めない部分です。
小さくとも、こんなに大きな実話があの被災地に存在しているに違いありませんね。
そこのところを、とりわけ政府上層部に訴える力もあるようです。
災害後、1ヵ月と少々でこんな胸に迫る創作をなさったことに敬意を表します。
国の施策が遅滞するなか、船を送ったり発電機を届けたりの民間支援が進んでいます。
こうした事象に一喜一憂する一方、じっと耐える人々ひとりひとりに秘められた物語があるはずです。
つたない想像力を、少しでも現実にリンクさせられればと願っています。
われわれには想像すらできない物語も・・・・。
貧しい想像力にすぎませんが、これからもしっかりと見届けていきたいとおもいます。
政府関係者が、こうした視点を持ってくれるといいのですが、どうなのでしょう?