『長英の隠れ家』(湯本家)
六合村の美しさを何回かに分けて書いたのは、1年半も前の4月頃だったろうか。
ティータイム(44)から四、五回にわたっての事で、その後も機会をみつけて訪れているが、こころが洗われる思いはいまも変わっていない。
混雑するお盆休みを少しずらして、短い夏休みをとった。
何をおいても畑の草取りを済まさなければならない。
植えっぱなしの馬鈴薯とインゲンが、なんとかしてくれと悲鳴をあげている。始めの二日間は、家の周りのことで時間が消えた。
仕事のあとは温泉が愉しみだ。
草津は無料の立ち寄り湯が魅力だし、六合村は多少の入湯税を払うが「応徳の湯」にしろ「赤岩の湯」にしろ、ゆったりとした時間を過ごせるのがいい。
前回は応徳温泉の効能について触れた気がするので、今回は赤岩温泉にまつわる話を紹介する。
この温泉は別名「長英の隠れ湯」とも呼ばれる。
幕末の蘭学者・蘭医の高野長英が、伝馬町の大火に紛れて脱獄し、幕吏の追及を逃れてこの地に一時かくまわれた因縁によるものである。
長英が関所を避けて江戸から関東北部、東北を経て母親のいる故郷水沢までたどり着いた経緯は、吉村昭の小説『長英逃亡』に息詰まる逃避行として描かれている。
このときに頼ったのが、蘭学つながりの<湯本家>であり、人情・教養に厚い赤岩地区の住人にも援けられて次の避難地にむかったのだろう。
養蚕業が盛んで、日本の絹産業の一端を担っていた村の雰囲気が、いまでも白壁造りの建物や街並みに残っている。
ちなみに、湯本家の角に掲げられた立て札には、次のような来歴が記されている。
<江戸・明治からの家並みを今に残す赤岩集落は、観音堂や毘沙門堂、水車などが点在する素朴な山里です。幕末には、長崎でシ-ボルトに学んだ蘭学者・蘭医の高野長英が、この地の湯本家にかくまわれていたことがありました。開国論を唱えて捕えられた長英が、火災によって獄舎を逃れたときのことです。
湯本家の祖は木曽義仲に仕えた人物で、義仲敗死ののち、義仲の胤を宿した娘を守りながら、草津に近い細野平に隠れ住み、細野御殿介を名乗ったということです>
現在の赤岩温泉施設のあたりに癒しの湯があったのか、長英も束の間の安らぎを得ていたのかもしれない。
身分の違いも貧富の差もないわが国の温泉文化、それこそ裸の付き合いができる良き習慣である。
心置きなく温泉に浸かり、花々が旅人を迎える清潔な村にひと時を過ごし、あらためて六合村のすばらしさを満喫した休暇であった。
そこに歴史上の人物の隠れ家があるなんて!
窪庭さんの紀行文は、さりげなく、実のところ奥深いので、しんみりと読ませていただく仕儀となります。
そして、その地をこころから愛しているんだなあ、という感じがします。
「仕事の合間」と「畑仕事」がそれに交わるところがまた、いいなあ。
畑仕事をやりに別荘へ行く・・・健康によさそうだし、その後近くの温泉にざぶんなんて最高ですね。
ところで「六合村」と書いて「クニムラ」とはなかなか読めませんね。
この独特の村名には何か特別の謂れがあるのでしょうか?
静岡だったでしょうかあっちの方には「六合村」と書いて「ろくごうむら」と読む土地もあるようですが、何か関連などあるのかな・・・。
逃亡者である高野長英を匿うなど、当時としてはよほどの覚悟がなければ出来なかったことなのでしょうね。
もし明るみにでたりしたら、いくら地域の名門であってもただではすまなかったはずですから。
昔は腹の坐った方が地方にもちゃんといたのですね。
知恵熱おやじ
六合を「くに」と読む根拠は、古事記や日本書記まで遡るようです。
古代には、世界のことを「六合(りくごう)と呼び、しばしば「支配の範囲=国」の意味で使われていたようです。
そのことから、六つの集落が合わさってできた行政区に「六合村」の名を冠し、クニムラと読ませたことが記されています。
次のブログでも六合村を構成する集落の名前など書きましたので、お読みください。
ヘエー、古事記・日本書紀まで遡ることのできる由緒ある呼び名を村名にしたのですか。
六合=国だったとは・・・。
勉強になりました。
次回にさらに詳しく「六合村」関連について書いていただけるとのこと、楽しみにしています。
知恵熱おやじ