「辺見庸の発する照射線」
以前から、この作家の発する言葉には尋常でない力があった。
その時々の政治、文化、メディアに対する研ぎすまされた発言は際立っていた。
『もの食う人びと』『目の探索』『自分自身への審問』『永遠の不服従のために』ほか、多くの著作にそれらの記録がまとめられている。
ぼくが最初に辺見庸の名を知ったのは、『自動起床装置』が文学界に発表され、芥川賞を受賞したときである。
だが、ほんとうに彼の言葉に驚嘆したのは、1991年11月に文芸春秋から発行された『ナイト・トレイン異境行』を読んだときだ。
魂と肉体が一体になった言葉に、真似のできない焦燥と恍惚を感じ、深いため息をついたものだ。
(特に共同通信社ハノイ特派員時代の話には、文学の原点があった)
その後の活動は新聞・月刊誌・週刊誌・テレビ等でのインタビュー、講演記録、ノンフィクションで目にすることが多い。
『闇に学ぶ--辺見庸掌編小説集・黒版』など小説作品は、数少ない気がする。
ただ、何を媒体にしても、人間の真理、社会の深奥に迫る言葉を駆使して、時流に刃向かう姿勢は一貫しているようだ。
あえて繰り返せば、ぼくは底なし沼のようなベトナムと最高に相性の良かった特派員時代の辺見庸が一番好きである。
詩文の透徹力、遡及力を駆使した彼の表現に、真実の在りかを見出す喜びを脇に置いても・・・・。
と言いながら、今回の3.11東日本大震災についての辺見庸の発言を知って、ぼくは再び真実に到達する言葉の力を思い知らされた。
例によって機敏でないぼくは、ETVテレビ出演や、北日本新聞への「震災特別寄稿」も他の方のブログで様子を知ることになった。
発表から間もなく二カ月になろうというのだから、われながら呆れるほどだ。
だが、早かろうが遅かろうが、欺瞞の屑の中から宝物を見つけた時の喜びに変わりはない。
許しを得て、ブログ『炎の水と天使カシエル』(フットチーネさん)から、北日本新聞(2011年3月16日朝刊)への「震災特別寄稿」を転載する。
震災緊急特別寄稿 「日常の崩壊と新たな未来―非情無比にして荘厳なもの」
風景が波とうにもまれ一気にくずれた。瞬間、すべての輪郭が水に揺らめいて消えた。わたしの生まれそだった街、友と泳いだ海、あゆんだ浜辺が、突然に怒りくるい、もりあがり、うずまき、揺さぶり、たわみ、地割れし、ごうごうと得体の知れぬけもののようなうなり声をあげて襲いかかってきた。
その音はたしかに眼前の光景が発しているものなのに、はるか太古からの遠音でもあり、耳の底の幻聴のようでもあった。水煙と土煙がいっしょにまいあがった。
それらにすぐ紅蓮の火柱がいく本もまじって、ごうごうという音がいっそうたけり、ますます化け物じみた。家も自動車も電車も橋も堤防も、人工物のすべてはたちまちにして威厳をうしない、プラスチックの玩具のように手もなく水に押しながされた。
ひとの叫びとすすりなきが怒とうのむこうにいかにもか細くたよりなげに、きれぎれに聞こえた。わたしはなんどもまばたいた。ひたすら祈った。夢であれ。どうか夢であってくれ。だが、夢ではなかった。夢よりもひどいうつつだった。
それらの光景と音に、わたしは恐怖をさらにこえる「畏れ」を感じた。非情無比にして荘厳なもの、人智ではとうてい制しえない力が、なぜか満腔の怒気をおびてたちあがっていた。水と火。地鳴りと海鳴り。それらは交響してわたしたちになにかを命じているようにおもわれた。たとえば「ひとよ、われに恐懼せよ」と。あるいは「ひとよ、おもいあがるな」と。
わたしは畏れかしこまり、テレビ画面のなかに母や妹、友だちのすがたをさがそうと必死になった。これは、ついに封印をとかれた禁断の宗教画ではないか。黙示録的光景はそれじしん津波にのまれた一幅の絵のようによれ、ゆがんだ。あふれでる涙ごしに光景を見たからだ。生まれ故郷が無残にいためつけられた。
知人たちの住む浜辺の集落がひとびとと家ごとかき消された。親類の住む街がいとも簡単にえぐりとられた。若い日に遊んだ美しい三陸の浜辺。わたしにとって知らぬ場所などどこにもない。磯のかおり。けだるい波の音。やわらかな光・・・。一変していた。なぜなのだ。わたしは問うた。怒れる風景は怒りのわけをおしえてくれない。ただ命じているようであった。畏れよ、と。
津波にさらわれたのは、無数のひとと住み処だけではないのだ。人間は最強、征服できぬ自然なし、人智は万能、テクノロジーの千年王国といった信仰にも、すなわち、さしも長きにわたった「近代の倨傲」にも、大きな地割れがはしった。とすれば、資本の力にささえられて徒な繁栄を謳歌してきたわたしたちの日常は、ここでいったん崩壊せざるをえない。わたしたちは新しい命や価値をもとめてしばらく荒れ野をさまようだろう。
時は、しかし、この広漠とした廃墟から、「新しい日常」と「新しい秩序」とを、じょじょにつくりだすことだろう。新しいそれらが大震災前の日常と秩序とどのようにことなるのか、いまはしかと見えない。ただはっきりとわかっていることがいくつかある。
われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非倫理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている。
愛や誠実、やさしさはこれまで、安寧のなかの余裕としてそれなりに演じられてきたかもしれない。けれども、見たこともないカオスのなかにいまとつぜんに放りだされた素裸の「個」が、愛や誠実ややさしさをほんとうに実践できるのか。これまでの余裕のなかでなく、非常事態下、絶対的困窮下で、愛や誠実の実現がはたして可能なのか。
家もない、食料もない、ただふるえるばかりの被災者の群れ、貧者と弱者たちに、みずからのものをわけあたえ、ともに生きることができるのか、すべての職業人がやるべき仕事を誠実に追求できるのか。日常の崩壊とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこにかかわることだろう。
カミュが小説『ペスト』で示唆した結論は、人間は結局、なにごとも制することができない、この世に生きることの不条理はどうあっても避けられない、というかんがえだった。カミュはそれでもなお主人公のベルナール・リウーに、ひとがひとにひたすら誠実であることのかけがえのなさをかたらせている。
混乱の極みであるがゆえに、それに乗じるのではなく、他にたいしいつもよりやさしく誠実であること。悪魔以外のだれも見てはいない修羅場だからこそ、あえてひとにたいし誠実であれという、あきれるばかりに単純な命題は、いかなる修飾もそがれているぶん、かえってどこまでも深玄である。
いまはただ茫然と廃墟にたちつくすのみである。だが、涙もやがてかれよう。あんなにもたくさんの死をのんだ海はまるでうそのように凪ぎ、いっそう青み、ゆったりと静まるであろう。そうしたら、わたしはもういちどあるきだし、とつおいつかんがえなくてはならない。いったい、わたしたちになにがおきたのか。この凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。まなぶべきものはなにか。
わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。あぶない集団的エモーションのもりあがり。たとえば全体主義。個をおしのけ例外をみとめない狭隘な団結。歴史がそれらをおしえている非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。
(2011年3月16日水曜 北日本新聞朝刊より転載)
この記事は、他にも『詩空間』(河津聖恵さん)などたくさんのブログで紹介されている。
それだけ衝撃的な力を持った言葉を、看過できなかったともいえる。
辺見庸を別にしても、それぞれ優れた書き手の方なので、ぜひブログを覗いてみてほしい。
ぼくも、自分の言葉で書くことを諦めたわけではないが、まずは、この記事の命題ともいうべき結句「かんがえなくてはならない」を、できるだけ多くの人と共有したいので転載した次第。
『ナイト・トレイン・異境行』の<ホテル・トンニャットからの手紙>で紹介されている、中央部分が人型にへこんだセミダブル・ベッドを愛する者だが、しばらくは避難所の堅い床について考えなくてはならない。
なお、5月7日に発売された『文学界6月号』に、辺見庸の「眼の海-ーわたしの死者たちに」という詩篇が載っている。
一日遅れて8日に買いに行ったら、駅ビル内の大書店で売り切れになっていた。
何軒か回って手に入れたが、詩や俳句、短歌にまで精通する辺見庸の言葉の浸透力に、いくら目くらましを受けても真実は決して曇らないことを確信したのであった。
(おわり)

初めてコメント欄にお邪魔します。
フットチーネです。
辺見庸氏の文章だけでなく、僕のブログまでご紹介いただき、ありがとうございます。
「すぐれた書き手」とご紹介頂きましたが、僭越な限りです。自身では「中学生の作文以下のナルシスティックな文章」だと思っております(苦笑)
僕も『文學界』を購入しました。生まれて初めて文芸誌を買いました(社会科学・哲学思想系の雑誌は何度も買っているのですが)。
この時期は、各詩の新人賞の発表の時期になるのだなぁ、と新しい発見がありました。
(ちなみに文藝春秋と新潮社は金を落としたくない出版社なのです。しかし、今回は特別です(苦笑))
色々と忙しく、やらねばならない事もを多いので、辺見氏の新作詩および詩集『生首』は落ち着いたときにじっくり読もうと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
今回の記事転載や、辺見氏の新作詩・詩集情報などいろいろ教えていただきありがとうございました。
『文学界』巻頭の詩篇が、これほどたくさんとは知りませんでした。
貴ブログに紹介されていた「死者に言葉をあてがえ」は、その中の一編だったのですね。
偶然に文学界新人賞の発表号でもあり、おまけをもらった気分です。
これからもよろしくお願いいたします。
あの大震災の数日後、沸騰したように湧き出る言葉を整理したのでしょうが、どんな作家でもジャーナリストなどでも、そこまで深みがあり、真実を衝いた言葉を発せられないと思われたほどです。
窪庭さんが記されたように作家としての地歩も築かれているようだし、共同通信の通信記者という経歴からも、あらためて認識できました。
東日本大震災に関しては、前回の創作と言い、今回の紹介記事(?)と言い、あらためて貴プログに敬意を表します。
丑さんもたしか記者として世界各地を巡っていた方、「沸騰したように湧き出る言葉・・・」とのご指摘に、洞察力の確かさを感じました。
「文学界」に載っている詩篇も、ぜひお読みください。