承久3年〈1221年〉源頼朝が没した後にここをチャンスと見た後鳥羽上皇を中心にした朝廷勢力が執権北条義時率いる鎌倉幕府と戦ったのが承久の乱である。
結果は鎌倉方の大勝で終わったが鎌倉幕府の京における支配力が脆弱であることは誰の目にも明らかであった。
北条義時は幕府を13人の有力な武将の合議制で運営したが、もともと一国の主であった関東武者たちは我こそはの意識が強く譲らない場面が多かった。
三代執権になった北条泰時は承久の乱の事後処理のため新設された探題として上洛し、朝廷の動向に目を光らせた。
探題は現在の検察と裁判所を合わせ持ったような強大な権力を有した。
探題は六波羅の北と南に置かれ、北条泰時が北詰め、北条時房が南詰を務めた。
それまでは京の治安は検非違使が担うものと認識していた鎌倉幕府も、探題が自らの責任で朝廷側の動きを抑え込んだことで格段に安定した。
同時に朝廷支配下の荘園が再分配された。
それぞれの荘園に地頭が置かれ、厳しく年貢を取り立てた。
後鳥羽上皇の私有地でもある荘園を地頭に支配されたことで、近臣との諍いは後を絶たなかった。
承久の乱は朝廷側の不満が爆発した結果起こった反乱と見ることもできる。
北条泰時といえば「御成敗式目」を制定したことで知られる。
法曹関係に詳しい官僚=評定衆に命じて作らせた初めての武家法で、最初は御家人を対象にした運用であったが幕府の支配力が増すにつれて範囲が広がっていった。
六波羅探題のトップでもある泰時は、地頭の権限を強化し土地の所有や利用に幕府の意向を反映させた。
51条からなる御成敗式目は、武家法の基盤としてのちの世まで踏襲された。
律令国家であった奈良時代から平安時代初期までは国司が中央政府の代わりを務めたが、平安末期には律令制は完全に崩壊し、朝廷に代わって関東武士が権力を手中にした。
鎌倉幕府は朝廷側の所領約3000箇所を没収した。
鎌倉武士の御家人が西日本の没収領へ移住していった。
荘園や国衛領〈公領〉を支配したことで経済的にも朝廷勢力の力を奪っていった。
とはいえ年貢を納めないなど朝廷側と地頭の間に起こった争いは後後まで尾を引いた。
地頭職の任命に当たり、年貢を納めなかった場合には解任する旨の条文もあることから地頭は持っている権力を総動員して対処した。
こんな話もある。
年貢を拒否するということは鎌倉幕府への謀反だから年貢を納めるまで娘を預かると言って地頭の住まいまで引き立てた。
娘を取り調べ、隠し田の存在を白状させ、年貢の増量を幕府に進言した。
地頭には荘園の所有権はなく、管理監督権のみ与えられている関係で領主〈鎌倉幕府〉の褒章に期待するしかないのである。
親がその年の年貢を納められなかったので、娘は下女として働かされた。
夏の夜の井戸端で食器類を洗っていると近所の下郎3人に襲われ凌辱された。
娘は我が身を悲観し翌日井戸に身を投げた。
地頭はまもなく事の顛末を把握したが、領主への報告はしなかった。
このことを知られたら地頭を解任されるのは必定だからだ。
井戸は河原の石で封鎖し、別の場所に新たな井戸を掘らせた。
しかし、新たな井戸のそばに行くとシクシクと泣く声がするので、気味悪がって誰も近寄らなくなった。
〈おわり〉
ぼくも知らないことだらけで勉強しながら書いています。
歴史的事実の中に挿話の形で思い付きを入れてきましたが、今回の地頭の話は地頭に与えられた権限と考え併せて横暴も極まればこんなこともありうるかと思いました。
鎌倉幕府も荘園からの年貢のためには地頭の力が必要ですから、多少の逸脱には目を瞑っていたのではないか・・と。
それにしても、年貢を納めるまで娘を地頭の住まいまで引き立てた、という話しは凄いですね。