ヨシモトは、まだインドにいるのだろうか。地球が回る音を聴くことはできたのだろうか。
彼が去って、もう五年は経ったはずだ。その間、おれは転職を繰り返し、そのたびに薄汚れていったような気がする。
ヨシモトが身近にいれば、おれの生き方も少しは変わっていたかもしれない。大学の道場の片隅で、彼とともに瞑想し、「あ、うん」の呼吸で宇宙と一体になることができたのだから。
「あ、え、い、お、う~」
心と身体を一つにして声を発し、吐き切って空になった受容体に、宇宙からのエネルギーを引き入れる。反らした上体を戻しながら、広げた両手を閉じて天を押し上げる。その所作の後、「う~ん」と身を屈めつつ祈りのポーズをとって、一つのサイクルが完了するのだ。
一連の型が、空手や柔術とは異なった発想から編み出されたものであることを、おれは繰り返す動きの中で会得したはずだった。
だが、ヨシモトが去ってまもなく、おれは声を発しなくなった。体を反らすこともなくなり、神田で買った柔道着は押入れの隅に放り込んだ。
(ミナコさんは、いまどうしているだろう・・)
おれは、二ヶ月前に辞めた自動車内装会社の女性事務員に思いを移していた。ヨシモトの思い出と違って、まだ記憶が生々しい。それでも少しは内省に耐えられる時期が来たということか。反対に、おれの気持ちの中にまだまだ引きずるものが残っていたと言うべきか。
その女性の年齢が四十歳をいくつか超えていたことを、おれは仲間から聞いて知っていた。いつも縦じまのツーピースを着こなして、颯爽とした印象と同時に落ち着いた雰囲気をかもし出していた。
そんな彼女が一度だけ、光沢のあるタイシルクのブレザーをまとってきて、周りをおどろかせたことがある。朱に近い茜色が地味な職場のなかで際立っていた。
齢より若いと評判だったのは当然だが、一方で、社長のオンナだと噂されていたのもたしかだった。衣装の変化が何によるものか、おれも含めて憶測の視線が集まった。
彼女は経理の責任者で、部下の年配嘱託社員を使って、この会社の財務を取り仕切っているようだった。
営業の男性社員たちも、ことあるごとに彼女に声をかける。日々の交通費、接待費、出張費など、かなりシビアな査定をくぐるために、ご機嫌伺いを欠かすことはできなかったのだろう。
「ミナコさん、来週浜松へ行くけど、お土産なにがいいかな」
「なんにも要らないわよ」
軽くあしらって、微笑む。
おれは、たまたま居合わせて、受け口の下唇がほんの少しせり上がり、閉じあわない口元に闇を銜えるを見た。
紅い口紅に彩られた一筋の闇。おれは臆面もなく、ミナコさんの表情に見惚れていたようだ。
おれの仕事は、自動車シートの張替えとシートカバーの製作だった。
その後の経済発展にともなう新車需要の増加は、まだ予測すらできていなかった。
従業員三十人の仕事量を超えたペースで中古車が持ち込まれてきた。おれたちは一台ずつを担当し、それぞれの座席や背もたれを外して型紙を取り、縫製チームの女子従業員に引き渡した。
おれの在職期間がそれまでより長く続いたのは、作業中に得られる余禄の愉しみがあったせいかもしれない。ビニール製のひび割れた座席でも、高級車の日焼けした布張りシートでも、踏ん張って外してみると座席の下から小銭が出てくることが多かった。
後部座席の傾斜の角度が、ズボンのポケットから小銭を誘い出すのだろう、ほとんどの人は、背もたれとの隙間に自分の所有物が滑り込んだことに気付かずにいた。
おれは、小銭を見つけると、あまり罪の意識もなく作業ズボンのポケットにつっこんだ。櫛や鍵、イヤリングの片方、爪やすり、遊技場のメダル、小型の西洋バサミ、それらの拾得物は事務用の封筒に収めてダッシュボードに放り込む。
あるとき、背もたれの後ろから女性用の下着が出てきて驚かされたが、考えてみればあり得ることだと納得した。変色していたのを摘み上げて、仲間に見せることなく処分した。
ルノーやオースチン、ときにはビュィックやキャデラックなどの外車も作業場に運び込まれた。ヨーロッパやアメリカの車の場合、純正の生地を手に入れるのはむずかしい。日本の生地で代用したのでは、かえってグレードを落としてしまう。だから、張替えではなくシートカバーで対応する客が多かった。
嘱託のゴトウさんは、将棋が好きだった。
昼休みになると、衝立の後ろに相手を引き込み、早指し将棋に熱中していた。おれは、ときどき一人で観戦に行った。このところ指す機会はなかったが、おれも将棋には思い入れがあった。
「おっ、きみも指すのかね」
相手が考え始めたのを見て、ゴトウさんは脇に立つおれの顔を振り仰いだ。禿げた頭頂部を指で叩くしぐさのなかに、優勢を確信している喜びの表情が垣間見えた。
おれはニッと笑い返した。それだけで相手に足る男と思ったらしく、近いうちに手合わせしてみないかと誘いがかかった。
「いいですけど、よろしいんですか」
おれは、心が弾むのを抑えきれないほど喜んだ。
ゴトウさんには悪いが、昼休み中ミナコさんの近くでその気配を感じることができるのだから、将棋の楽しみを超えて有頂天になるのも無理はないと思った。
(続く)
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