この密かな儀式のような瞬間を、もうどれほど繰り返してきたことだろう。食欲と性欲が渾然となって意識される、至福の一刻を。
おれは、おれだけに与えられた豊饒の感覚を崇めて、大それた発見でもしたかのように陶酔していた。白菜がみせる裸身の美しさに、たったひとり美を見出すことのできる自分の感性に、自負を抱いていたということだ。
しかし、いつまでも悦びに浸ってはいられなかった。空腹にせかされ、アルミ鍋と食材を抱えて共同炊事場に急いだ。
炊事場には誰もいなかった。
三つあるガス台は、どれも長年使い込んだ色と形状をしていた。ときどき家主夫人がやってきて、噴きこぼしや錆を拭き取っていくのだが、黒くこびりついた炭化物の層は、厚くなることはあっても、鉄の地肌が見えるまで掻き落とすことなどできるはずはなかった。
朝のうちに誰かが使ったのだろう、ガス台の一つが濡れていた。
おれはマッチを擦って、ガス栓をひねってみた。湿った音を立てて火が点いた。おれの前に使用した住人の使い残しのガスだった。
おれは手早く鍋に水を入れ、ガス台にかけた。湯が沸く前に火が細り、まもなくポッと音を立てて消えるであろうことは予測がついた。だから、その前に小銭をメーターに落とし込む。
近ごろでは病院でさえ見かけなくなった原始的な設備が、ここではいまだに現役を務めている。おれの生活レベルが反映していて、自虐的な思いに永くとどまれる場所だった。
生返った油の臭いが消え、沸騰する鍋から立ちのぼる湯気の匂いが取って代わった。
おれは即席ラーメンの袋を破り、黄色い塊を沈めた。
その上に、よく洗った白菜を手でちぎりながら放り込む。手順よく進めても、最後の一片を鍋に入れるころには、激しく具を持ち上げる対流の様子が見られ、ほどなくおれの食事が出来上がるのだった。
冬眠こそしなかったが、おれの生活は熊に似ていたと思う。
ときどき働きに出て、餌が確保できると口実を作って職場を辞める。
仕事が嫌い、人が嫌い、穴倉のような場所にこもって、自分だけの空想をめぐらすのが好きなのだ。
のろのろと体を動かして、体力を維持するに足るだけのカロリーを摂取する。おれの越冬を最小限の出費で賄ってくれたのは、目の前で湯気を立てる安価な食物だ。
おれは買出しのさまを思い出して、ちょろちょろと木の実を備蓄する小動物に擬してみるが、段ボール箱を担いでレジを通る姿は、やはり熊に見立てるのがふさわしく思われた。
スープを入れると、いよいよ完成だ。
片手鍋の取っ手を掴んで、部屋に運び入れる。机の上に古い週刊誌を置き、その上に鍋を載せる。
生卵か魚肉ソーセージを載せれば豪華版だが、この日はシンプルな野菜ラーメンだった。
鍋から直接食うのが、おれのやり方である。安物の油でぎらつく汁に舌を焼きながら、白菜の分厚い量感を噛みしめる。
歯と舌を総動員して臓腑に送り込む滋養が、おれの日常をすっかり回復させてくれる。繰り返す躁鬱の谷間にあって、このときばかりは鬱屈までも食い尽くす顔つきをしているに違いなかった。
おれは食後のひととき、じっと目を閉じているのが好きだ。
摂ったばかりの栄養が全身に沁みわたり、徐々に力が湧いてくる。それを確かめて、やおら読書に向かうときの精神の緊張もすばらしい。
『審判』を読んで頭をかきむしり、『罪と罰』を読んで身近の老婆を特別の思いで眺めるようになった。スタンダールも田宮虎彦も、おれの中では滅びに向かう案内人だ。おれという存在が放射状に炸裂し、宇宙の彼方まで運ばれるとしたら、ニイチェや釈超空に会ってもいいと思っていた。
類は友を呼ぶというが、へめぐってきたさまざまな職場の縁で、おれは風変わりな男や女と知り合う機会を持った。そのひとりは、地球の自転の音を聴くためにインドに渡るというヨシモトだった。
彼は、これまでの修行で、樹木が水を吸い上げる音を聴けると断言した。実際に神宮外苑に連れ出され、おれも銀杏の幹に耳を押し付けてみたが、聞こえてきたのは誰かが練習するトランペットの音ばかりだった。
「きみは聴こえたの?」
「うん、日照りで水量が細ってますね。ぼくが秋田の山で出合ったブナの木は、泉が湧き出るみたいな音を立てていましたよ。やっぱり木にとって都会は住み辛いところなんでしょうね」
ヨシモトとは気が合って、しばしば行動を共にした。
彼が在籍する大学の屋上に立って、UFOを呼んだこともある。両手を広げ、西の空に向かってパワーを送っていると、いつしか暮れはじめた空に点滅する光が現れ、おれもヨシモトも固唾を呑んで見守ったことがあった。
宇宙人の実在を説くデニケンの本に熱中し、ピラミッドの謎やマヤ文明の不思議に興奮したのもヨシモトの影響だった。
この世のありふれた成り立ちに飽き飽きし、日常を超えた真理に思いを馳せる。二人を結びつけていたものは、無意識のうちに感じる疎外への抵抗だったのかもしれない。
しかし、そんな付き合いも長くは続かなかった。
アルバイトで渡航費用を作ったヨシモトが、急にインドへ旅立ったからだ。おれは、そのことを後からの手紙で知った。手紙には写真が同封してあった。白く長い鬚を伸ばした行者の横で、インド風の衣装に身を包んだヨシモトが目を細めていた。長髪を頭の後ろで結んだらしく、秀でた額がまばゆかった。
おれは、籠から逃げ出したインコの心境だった。外に出てみたが、空の広さに愕き、元の籠に舞い戻った。何ヶ月か続いていた仕事をやめたのは、数日後のことだった。
(続く)
おれは、おれだけに与えられた豊饒の感覚を崇めて、大それた発見でもしたかのように陶酔していた。白菜がみせる裸身の美しさに、たったひとり美を見出すことのできる自分の感性に、自負を抱いていたということだ。
しかし、いつまでも悦びに浸ってはいられなかった。空腹にせかされ、アルミ鍋と食材を抱えて共同炊事場に急いだ。
炊事場には誰もいなかった。
三つあるガス台は、どれも長年使い込んだ色と形状をしていた。ときどき家主夫人がやってきて、噴きこぼしや錆を拭き取っていくのだが、黒くこびりついた炭化物の層は、厚くなることはあっても、鉄の地肌が見えるまで掻き落とすことなどできるはずはなかった。
朝のうちに誰かが使ったのだろう、ガス台の一つが濡れていた。
おれはマッチを擦って、ガス栓をひねってみた。湿った音を立てて火が点いた。おれの前に使用した住人の使い残しのガスだった。
おれは手早く鍋に水を入れ、ガス台にかけた。湯が沸く前に火が細り、まもなくポッと音を立てて消えるであろうことは予測がついた。だから、その前に小銭をメーターに落とし込む。
近ごろでは病院でさえ見かけなくなった原始的な設備が、ここではいまだに現役を務めている。おれの生活レベルが反映していて、自虐的な思いに永くとどまれる場所だった。
生返った油の臭いが消え、沸騰する鍋から立ちのぼる湯気の匂いが取って代わった。
おれは即席ラーメンの袋を破り、黄色い塊を沈めた。
その上に、よく洗った白菜を手でちぎりながら放り込む。手順よく進めても、最後の一片を鍋に入れるころには、激しく具を持ち上げる対流の様子が見られ、ほどなくおれの食事が出来上がるのだった。
冬眠こそしなかったが、おれの生活は熊に似ていたと思う。
ときどき働きに出て、餌が確保できると口実を作って職場を辞める。
仕事が嫌い、人が嫌い、穴倉のような場所にこもって、自分だけの空想をめぐらすのが好きなのだ。
のろのろと体を動かして、体力を維持するに足るだけのカロリーを摂取する。おれの越冬を最小限の出費で賄ってくれたのは、目の前で湯気を立てる安価な食物だ。
おれは買出しのさまを思い出して、ちょろちょろと木の実を備蓄する小動物に擬してみるが、段ボール箱を担いでレジを通る姿は、やはり熊に見立てるのがふさわしく思われた。
スープを入れると、いよいよ完成だ。
片手鍋の取っ手を掴んで、部屋に運び入れる。机の上に古い週刊誌を置き、その上に鍋を載せる。
生卵か魚肉ソーセージを載せれば豪華版だが、この日はシンプルな野菜ラーメンだった。
鍋から直接食うのが、おれのやり方である。安物の油でぎらつく汁に舌を焼きながら、白菜の分厚い量感を噛みしめる。
歯と舌を総動員して臓腑に送り込む滋養が、おれの日常をすっかり回復させてくれる。繰り返す躁鬱の谷間にあって、このときばかりは鬱屈までも食い尽くす顔つきをしているに違いなかった。
おれは食後のひととき、じっと目を閉じているのが好きだ。
摂ったばかりの栄養が全身に沁みわたり、徐々に力が湧いてくる。それを確かめて、やおら読書に向かうときの精神の緊張もすばらしい。
『審判』を読んで頭をかきむしり、『罪と罰』を読んで身近の老婆を特別の思いで眺めるようになった。スタンダールも田宮虎彦も、おれの中では滅びに向かう案内人だ。おれという存在が放射状に炸裂し、宇宙の彼方まで運ばれるとしたら、ニイチェや釈超空に会ってもいいと思っていた。
類は友を呼ぶというが、へめぐってきたさまざまな職場の縁で、おれは風変わりな男や女と知り合う機会を持った。そのひとりは、地球の自転の音を聴くためにインドに渡るというヨシモトだった。
彼は、これまでの修行で、樹木が水を吸い上げる音を聴けると断言した。実際に神宮外苑に連れ出され、おれも銀杏の幹に耳を押し付けてみたが、聞こえてきたのは誰かが練習するトランペットの音ばかりだった。
「きみは聴こえたの?」
「うん、日照りで水量が細ってますね。ぼくが秋田の山で出合ったブナの木は、泉が湧き出るみたいな音を立てていましたよ。やっぱり木にとって都会は住み辛いところなんでしょうね」
ヨシモトとは気が合って、しばしば行動を共にした。
彼が在籍する大学の屋上に立って、UFOを呼んだこともある。両手を広げ、西の空に向かってパワーを送っていると、いつしか暮れはじめた空に点滅する光が現れ、おれもヨシモトも固唾を呑んで見守ったことがあった。
宇宙人の実在を説くデニケンの本に熱中し、ピラミッドの謎やマヤ文明の不思議に興奮したのもヨシモトの影響だった。
この世のありふれた成り立ちに飽き飽きし、日常を超えた真理に思いを馳せる。二人を結びつけていたものは、無意識のうちに感じる疎外への抵抗だったのかもしれない。
しかし、そんな付き合いも長くは続かなかった。
アルバイトで渡航費用を作ったヨシモトが、急にインドへ旅立ったからだ。おれは、そのことを後からの手紙で知った。手紙には写真が同封してあった。白く長い鬚を伸ばした行者の横で、インド風の衣装に身を包んだヨシモトが目を細めていた。長髪を頭の後ろで結んだらしく、秀でた額がまばゆかった。
おれは、籠から逃げ出したインコの心境だった。外に出てみたが、空の広さに愕き、元の籠に舞い戻った。何ヶ月か続いていた仕事をやめたのは、数日後のことだった。
(続く)
今回はどう展開していくのか。
いつも期待とともに読ませていただいています。
でもまだ主人公がどこへ向かっていこうとしているのかが見えてきませんね。
早く主人公の心の動きに乗っかって小説の世界に入っていきたいのですが、、、。
それにしても、2日おきくらいに更新していく窪庭さんの執筆エネルギーは素晴らしいですね。
これからも楽しみにしています。
読者を夢中にしてください。