どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

<おれ>という獣への鎮魂歌 (7)

2006-02-23 12:46:49 | 連載小説
 昼休みの早指し将棋に、おれの出番が多くなった。
 ゴトウさんが、おれのことを実力以上に吹聴するものだから、社員はおろか社長まで様子を見に来るようになった。
 何日か前のこと、横に立った長身の男の圧迫感に耐えられず、おれは身じろぎしながら振り仰いだ。その瞬間、薄ら笑いを浮かべた社長の視線が、おれからゆっくりと放れていった。
 理由は分からないが、おれは嫌われているなと直感した。おれの何かが癇に障ったのだろう、少なくとも好かれていないことは確かだと思った。
 おれは、将棋に熱中できなくなった。この日ありもしない用事をこしらえて、対戦を休んだのはそのせいだ。
 事情を心得た助っ人が、ゴトウさんの相手を務めることになった。
「じゃあ、一丁揉んでもらいますか」
 気を利かすタイプの古参社員がいるのだった。
 やれやれと安堵の思いに浸りながら、昼休みが終わりに近くなると、おれは将棋を覘きに行った。ミナコさんのそばを通り過ぎる楽しみもあるからだ。
「今日はどうかしらね。ゴトウさん勝ってるかしら・・」
 声をかけてくれるミナコさんに、おれは短い言葉を返すだけで精一杯だ。ほんとうは話をしたいのだが、頬が火照ってくるのだ。
 収拾のつかない状態になる前に、衝立の陰に滑り込む。
「ゴトウさん、すみませんでした。郵便局がやたら混んでまして・・」
 おれは背中越しに声をかけ、用事が済んだことを告げる。
「おお、大分調子が戻っとるぞ。昨日はきみにやられたが、明日は敵討ちできそうだ」
 すかさず翌日の対戦を約束させようとする。
 おれにしても、唯一の楽しみに執着するゴトウさんを落胆させたくない。
「じゃあ、明日・・」
 ゴトウさんという存在に大きく寄りかかり始めていたのは、おれの方かもしれなかった。
 午後の作業が始まる前に、おれは職場に戻った。
 この日は、社長の顔を見ることはなかったが、柱の陰から視線を注がれているようで落ち着かなかった。
 それでも、ミナコさんの笑顔は、嫌な気分を吹き飛ばす特効薬になった。
 おれは、布張りのシートを剥ぎ、中で折れたスプリングを外しながら、ひとりで思い出し笑いをしていた。
「キミ、なかなか強いね。この先有望だよ」
 初の対戦をしたとき、ゴトウさんがかけてくれた言葉である。
 小学生の頃から養父の相手を務め、知らず知らずに大人の駆け引きを覚えてきたおれの将棋は、ゴトウさんの戦法に充分対応できた。ぎりぎりの勝負、波乱の展開が、ゴトウさんを虜にしてしまったようだ。
 ゴトウさんとの距離が近くなると、おれは、訊かれるままにおれの生い立ちを話したりした。
 養父が叔父にあたる人で、父母とは死別していることも隠さなかった。
 そんな身の上話が漏れ聞こえたのか、ある時ミナコさんがおれのそばに立って、思わぬ問いかけをした。
「あなた、能登にはたまに帰るの?」
 おれは、指しかけていた手をとめて、ミナコさんを凝視した。突然振りかかった難題に、口をつぐんだ。
「いやぁ、あんまり・・」
 言葉にはしないが、あまり触れたくない故郷なのだ。
 尋常な死ではなかった親の記憶は、封印したままおれの部屋に投げてある。形見の硯と位牌は、さくらの木箱に収めて押入れの下段にしまってあった。
 おれの顔つきを見て、ミナコさんは何かを悟ったようだ。
「あら、わたしも自分の田舎には、めったに帰らないわ。みんな、そんなものよねえ」
 ミナコさんと打ち解けて話ができるようになったのは、そのことがきっかけだった。
 身の上話に立ち入ったことが負い目になったのか、ミナコさんはおれに対して妙な気遣いをするようになった。通りかかったおれを呼び止め、日曜日の何時何分にどこそこへ来るようにと耳打ちをしたりした。
 単に、貧乏な男にご馳走してやろうと思ったのだろう。巣鴨で映画を観たあと、地蔵通りの八ッ目うなぎ店におれを連れて行った。
 挑戦したのは、おれだけではない。ミナコさんも、はしゃぎながら一串平らげた。駅前に戻って寿司屋の座敷で向かい合ったとき、おれはミナコさんの勇気を讃えた。とても無理と逃げ腰だったのに、とうとう口にしたのだから。
 浅草、深川と、寺社めぐりのデートが続いたあと、おれは一度だけミナコさんのマンションに招かれ、夕食を共にした。白山上の真新しい建物は、おれの人生では現実になるはずのない住まいだった。
 エレベーターに乗り、客として案内されることすら、胸の高鳴る出来事だった。どうにも自分にそぐわない進行が、微かな不安となって付きまとった。
 その不安感は、まもなく的中した。それも、おれ自身の不注意によって、あっさりと運命が露呈した。
 慣れないことは、やるものではない。日ごろの礼をしようと、ミナコさんに連絡せずに彼女のマンションを訪れたのだ。
 直前まで、不安はあった。むしろ、チャイムに指をかけた瞬間、悪い予感が体を駆け巡ったのを覚えている。
 ドアが開き、男が顔を覗かせたとき、おれは最悪の運命を受け入れた。
 運命を呪うとか、自分の不運に打ちのめされたとか言う話ではない。おれは、呆然とおれを見つめる社長の顔を、正面から見返した。
「あれ、お届け先を間違えました」
 手に提げたワインの紙袋を持ち直し、後をも見ずに踵をかえした。
 これで、おれの少し長めの勤めも終わった。ゴトウさんには申し訳ないが、人の出会いと別れは、案外あっさりとやってくるものなのだ。
 帰りのバスの中で、おれの体は座席に沈みこんだ。
 ミナコさんに掛けてしまった熱湯は、どう拭おうとしても拭えないのだ。おれの迂闊さに絶望し、やはり生きる資格すらない運命を背負ってきたのだと、自分に言い聞かせた。

   (続く)

 

 

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