どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(9)全10回

2023-07-08 00:00:01 | 短編小説

 <二間半、二尺仕舞い、九本継ぎ>の名品は、下手な洋画などより気品があって、桂木の書斎の壁によく似合った。
 友人を呼ぶでもなく、家族が来るでもない桂木一人だけの城は、几帳面な性格そのままに整理が行き届いていて、実に居心地がよかった。
 そろそろ初夏の気配が色濃くなっている。風に運ばれてくる緑の匂いに、植物の旺盛な営みが感じられる。
 あまりにもあからさまな生命の活動を、桂木は好んでいなかったが、散歩をするようになってから徐々に馴染んできた。
 釣り竿を求めてから、十日ほどが過ぎている。その間、桂木は『ヘラ鮒釣具』の店に通じる散歩道をそれとなく避けていたのだが、この日、久しぶりに通ってみた。
 意外なことに、ラカンはいなかった。
 たまたま運動のために引き出されているのか、それならラカンのために好ましいと思った。このあたり、犬の散歩にはうってつけで、あの主人さえ厭わなければ、鎖をはずして自由に駆けさせる芝生さえある。ラカンにとって最高の気晴らしになるはずだった。
「ラカン、ラカン」
 念のために声をかけてみたが、犬も主人も不在であった。
 散歩の途中で、ばったりと遇うかもしれないと期待したが、そんなことは起こらなかった。
 四、五日して、桂木はまた『ヘラ鮒釣具』の看板の下に立っていた。
 この日、ラカンはいた。気のせいか、落ち着きがなく感じられた。
「ラカン」
 桂木が呼びかけると、わずかに反応したが、すぐに目を逸らした。
「ラカン、ラカン」 
 立て続けに声をかけたが、もう関心を示さなかった。
「ラカン、おまえ何を考えているんだよ」
 親しみを込めて頭を撫でようとした瞬間、黒犬の口が紅く割れ、白い歯列が剥き出しになって、そこからウワァンという音と熱い空気が噴き出してきた。
 危うく手を引っ込め、犬の射程から逃れたものの、桂木は肝を冷やした。
「先生、犬に近付くには、身を低くして、下から手を出さなくちゃだめだよ」
 いつの間にか主人が姿を現した。
「この前も話したように、この犬には何ひとつ気を許せるものがないんです。ボスと思ったものに見放され、家族の記憶も曖昧になった。安心して身を置く場所があれば、飼い主の応対に習って来客に対しても友好的になれるんだが、今のラカンは別だからね」
 またも、主人による犬の精神分析に付き合わされそうだった。
「しかし、小さな女の子が子犬を追いかけて、交通事故に遭った例もありますよ。ラカンの場合ももっと単純なんじゃないですか」
 桂木が異論を唱えると、主人は一笑に付した。
「あまり大きな声じゃ言えませんが、こいつはわたしにだって心を許しちゃいませんからね」
 けっこう大きな声で言って、主人は横目でラカンを見た。
 餌がもらえて、一応尊重されているから、今は番犬の役を務めているが、これは一種の契約関係みたいなものだと、主人は自説を披露する。ボスを決め損ねた犬が終生引きずる悲劇の典型を、どうしてもラカンの身の上に重ねたいようであった。
「ほんとに、そんなものなんですか」
「先生、気付いていますか。この犬は、人間の顔などまともに見ちゃいませんよ。愛情なんて、信じちゃいないんです。いつも遠くを見て、まるで哲学者のように考え込んでいるじゃあないですか」
 そこまで念を押されると、桂木も同意せざるをえなかった。 


   (続く)

 

(2006/01/13より再掲)

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2 コメント

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おはようございます (からく)
2023-07-08 07:40:41
「この犬は、人間の顔などまともに見ちゃいませんよ。愛情なんて、信じちゃいないんです。いつも遠くを見て、まるで哲学者のように考え込んでいるじゃあないですか」
山下達郎のジャニーズ擁護(事件?)。
山下達郎は今まさにこういう心境なのではないかと思いました。
いやあ、深い。昨今の世間の過剰なバッシングというのも意外と人間世界のこういうところに原因があるのかもしれません。
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過剰なバッシング (tadaox)
2023-07-08 09:54:57
(からく)さん、おはようございます。
ジャニーズをめぐる憶測と周辺の発言を捉えて過剰なバッシングが続いているようですね。
山下達郎さんが何を言ったか知りませんが、今度は竹内まりあの曲は一生買わない・・・・・ですか?
ぼくは九州を旅した時に特急「にちりん」の最前車両に乗り合わせてしまってスタッフの方に大声での会話を遠慮してほしいと要請されたましたが、言われてみれば独自の世界に入り込んでいるみたいでした。
これから行くコンサート会場で披露するヒット曲の事とか自分の体調とか考えることは多いだろうなと思っていましたが、別のことを考えていたのかな。
ラカンという犬に注目していただいてありがとうございます。
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