どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

細身のジャック(13)

2010-10-24 02:03:16 | 連載小説

 正夫は、夕子にシャワーを浴びさせ、その間に片栗粉を溶いてテーブルの上に用意した。

 具合の悪いときに、よく母親が作ってくれたことを思い出したのだ。

 腹痛だけでなく、風邪でも、怪我のときでも、どんぶり鉢に六分目ほど入れた半透明のカタクリを用意してくれた。

 不思議なことに、それを口にすると体が温かくなり、いつの間にか気持ちが静まるのだ。

 傷んだ体を外側から包み込むように霧状の粒子が湧いてきて、曖昧模糊とした膜の中で自然に瞼が下りてくるのだった。

 眠りが最良のクスリであることは、彼の経験からも明らかだった。

「ぼくは会社を休むから、安心して眠ったらいいよ」

 しばらく使わなかった布団をのべて夕子を寝かせ、タオルに包んだアイスノンを頭の下に差し込んだ。

「おやすみ・・・・」

 やがて寝息が聞こえてきた。

 夕子の寝顔を見ているうちに、正夫も疲れが出て椅子に腰掛けたまま眠りに落ちていた。

 夢に緑の崖が大きく映し出されていた。

 樹木に覆われた岩肌に、一人の男が取り付いている。

 ロープを頼りに、上部を目指しているようだ。

 肩甲骨の動きに見覚えがあった。

 (えっ、おれ?)

 訓練の足りない背中の筋肉が、痙攣するようにひくついていた。

 ロープに掴まる手の握力が、急速に抜けていった。

 手を離せば死ぬと分かっているのに、ギリギリ体重を支える苦しさよりは落ちた方がましだと考えている。

「アアーッ」

 ハッとして目覚めると、正夫は椅子に腰掛けたまま小一時間眠ったようだ。

 背中にあたっていた背凭れの部分が、鈍い痛みの原因だった。

 不自然な形で垂らしていた右腕が、二の腕から指先まで痺れていた。



 正夫の魘された声で、夕子の眠りが破られたようだ。

 瞼をピリピリと震わせ、頭上の蛍光灯を眩しそうに見た。

「ごめん、起こしちゃった・・・・」

 正夫が謝ると、手で顔を覆い首を横に振った。

「わたし、夢を見ていたみたい」

 正夫が願ったほど、深く眠ることはできなかったようだ。

 少しでも厭な記憶が拭われたかと、夕子の表情をさぐる視線が鋭くなっていた。

「いや、そんな顔しちゃ、いや」
 
 夕子は、正夫に背を向けるように反転した。

 自分ひとりで、懸命に結論を導き出そうと身を硬くしているように見えた。

 しばらく、声をかけるのがはばかられた。

 正夫は、立ち上がって台所に向かった。

 時間をかけて食器を洗い、そのあと薬缶に水を汲んでガスの火を点けた。

 沸きかけた湯が、ガタガタと音をたて始めた。

 正夫は、薬缶の動きをじっと見つめていた。

 大きく揺れていたアルミの容器が突然動きを止め、つる首のような口から一気に湯気を吐き出した。

 ふだん意識することもなく見過ごしていた現象が、正夫の心を誘い込んでいた。

 立ち尽くしていた決意が、立ち昇る蒸気に導かれて形をとった。

 オトシマエなどという、いい加減な言葉では言い表せない憤りが、換気口に向かって噴き上がっていた。

 緑茶を淹れて、居間に戻った。

 夕子は布団をたたんで、押入れに押し込むところだった。

「ああ、そんなの僕がやるよ」

「あたし、しっかりしなくちゃね・・・・」

 振り向いた顔に、覚悟が浮かんでいた。

 正夫に許しを請うといった女々しさを、夕子は見せなかった。

「相手は何という奴だ?」

 夕子は、ためらうことなく当事者の名を告げた。

 正夫に訊かれるまま、支援組織の概要と所在地を説明した。

「警察に訴えるのか?」

「わからない。・・・・でも、最後は自分で決めるわ」

 うやむやにするのではなく、遅かれ早かれ自分で自分の道筋を示すという意思を秘めた言葉だった。

「お茶、出すぎたかな」

 二つ並べたマグカップに、急須から緑茶を注いだ。

 正夫は、鮮やかな緑の液体を先に口にした。

 まだ冷め切らない一番茶が、喉から食道を焼きながら落ちていった。
 

 
 昼食を共にすることなく、夕子は去った。

 残された正夫は、こめかみがズキズキと脈打つのを指で押さえた。

 どうやら、張りつめていた神経がゆるんだようだ。

 わずか一時間ほどでも深く眠ったことで、眠気は吹っ飛んでいた。

 一方、頭の芯が冷静すぎるほど冴えていた。

 自分がいま、何をしようとしているのか、手順と結末を考えていた。

 もしかすると、夕子が先に行動を起こすかもしれない・・・・。

 そうだとしても、埒が明くような結果は得られないだろう。

 正夫は、ジーンズに足を突っ込み、シャツの上から薄手のセーターを羽織った。

 出る間際に、パーカーを纏うつもりだった。

 引き出しの奥からジャックナイフを取り出した。

 何度も網膜に焼き付けたハガネの反りを、あらためて確かめた。

 木綿のハンカチに包んで、ジーンズのポケットに押し込んだ。

 いつも持ち歩くショルダーバッグは、この日は部屋に置いて出た。

 身分を示すもの、職場に関係するものは、無意識のうちに遠ざけていた。

 東京駅で乗り換えて、蒲田で降りた。

 聞いたとおり東口に向かい、どことなくレトロな雰囲気のショッピングフロア『パリオ』を通り抜けた。

 タクシー乗り場に近い公衆電話から、在日朝鮮人支援組織の連絡事務所に電話をかけた。

 正夫は、日本人から差別を受けた被害者を装い、めざす相手を呼び出した。

「あなた、わたしを助けられますか?」

「まず、話を聞いてからですが、たいがいの事ならできますよ」

 男は自信を示すように、かすれた笑い声を喉の奥で転がした。

「よかったです。それじゃ、わたし、いまからそちら行きます」

 正夫は、大通りを西糀谷方向へ進んだ。

 歩いて十五分ほど過ぎると、しだいに家が建て込んできた。

 目印の煙草屋の角を曲がると、黒ずんだ木造アパートが目に付いた。

 一階の奥まった部屋が、彼らの秘密めいた拠点だった。

 ノックをすると、覗き窓の覆いが上がって、誰何の声がした。

「先ほど電話した者ですが・・・・」

 ナイフは、すでにパーカーのポケットに移していた。

「ちょっと待って、ちょっと待って」

 一瞬、間を取ったのは、正夫が同胞かどうか判断に迷ったからかもしれない。

「はい?」

 正夫は肩を落とした。

 窓越しの視線を意識しながら、ドアが開くのを待った。



 部屋に入ると、三十代の男からパイプ椅子をすすめられた。

「きょうは女の子いないんで、お茶も出せませんが。・・・・ところで、どんなご用件で?」

 目が細く、濡れたような唇の男だった。

「実は、被害者からあなたに助けてほしいと相談されました」

「へえ、ぼくの名前、どこで知ったのかな」

 急にいぶかしげな表情をして、正夫を注視した。

「あなた、けっこう有名です。ぼくの妹、一生忘れません」

「えっ? 妹って、誰のこと?」

 さすがに異様な雰囲気が漂った。

「萩村夕子。・・・・知ってるよね」

 途端に相手の顔色が変わり、そわそわし始めた。

 正夫との間には、組み立て式の机があるだけだ。

 身を乗り出せば、届きそうな距離だった。

「あなたが夕子に何をしたのか、詳しく聞かせてもらいたいんだ」

「いや、ぼく、そんな、説明するようなことは・・・・」

「シラを切るんじゃないよ。無理やりやったんだろう!」

 抑え切れない感情が、腹の底からこみ上げてきた。

「それは、違います。彼女とは合意の上です」

 卑怯な男が、いかにも使いそうな言いわけだった。

「テメエ、人権だ何だと正義づらしやがって・・・・」

 怒りで言葉が途絶えた。「クソ、夕子の腫れあがった顔をみりゃあ、おまえが強姦したのは一目瞭然だ}

 正夫は、パイプ椅子を蹴るように立ち上がっていた。

 相手も仰け反るように腰を引いた。

「こら、逃げるなよ」

 正夫の言葉が呼び水になったのか、よろけるように回り込んで背後の引き戸に手を掛けた。

 上がり框の奥に、畳が見えた。

 瞬間、正夫の背筋を悪寒が走った。

 犯罪現場を目にした衝撃だった。

 板敷きの部分に膝を突き、男は這うように逃げ込もうとしている。

 正夫は反射的に手を伸ばし、腰のあたりを押さえつけた。

「許せねえ、在日だろうと日本人だろうと、腐った奴は許せねえ」

 いつの間にか引き出したナイフで、目の前の逃げるものを突き刺した。

 ギャーッと悲鳴が上がり、男が太股を押さえながら反転した。

 恐怖で見開いた目が、正夫の次の行動を確かめようとしていた。
 
 (向かってくれば、すっきりするのになあ)

 正夫は、相手の腹部にずっぷりナイフを突き立てる感触を想像した。

 握った指のところまで刃を差し込んで、ぐりぐりと抉ればすべての不満は解消されるのに・・・・。

 その代わり、ここまで辛抱してきた復学も、肉親との関係も、職場も、いっぺんに失うことになる。

 いや、すでに、大学に納めた大枚の紙幣が宙に舞う姿を想いうかべていた。

 どの程度の傷か分からないが、ダメージを受けた筋肉がしばらく歩行困難者を作り出すことが予想された。

「おまえ、少しは人の痛みが分かったか」

 正夫は、相手の鼻先にナイフの切っ先を突きつけた。

「病院で、あらゆる証拠を記録してある。おまえが許しを乞えば別だが、出方次第でいつでも訴え出るつもりだ」

「すみません、許してください」

「二度と、人の弱みにつけ込んだりするなよ」

「はい」

 その場限りの反省だろうと思った。

 目の端から覗くぬめった光が、その信号を発していた。

 正夫は、踵を返した。

 はやく去ることで、男の手当てを急かせる意味もあった。

 後味の悪い結末だった。

 何もかも捨てて、夕子に殉じるところまでは行かなかった。

 『俺たちに明日はない』

 アメリカン・ニューシネマのようにはいかないものか・・・・。

 いままでと同じように、猥雑な因縁を抱えて生きることになりそうだった。

 細身のジャック・・・・。

 思いを副わせたナイフにも、見せ場を作ってやれなかったことを詫びたい気持ちだった。


       (第一部・おわり)



  * 作中の人物・団体・出来事等は、すべてフィクションとして描いています。
    一部実名の登場もありますが、架空の設定ですのでご承知置きください。






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4 コメント

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第2部へ期待! (知恵熱おやじ)
2010-10-24 05:04:07
ついに使われたジャックナイフ。密かに思っていたよりは素直でストレートな使われ方ではありましたけれど。
ちょっとスカッとしましたが、もちろん物語りはここから本格的な深みに入っていくのでしょう。

「第1部おわり」とありますから、第2部への期待が高まります。

人を傷つけたからには、主人公の内面にも何か変化が起こるのでしょうし、夕子との関係にも化学反応が生ぜずにはおかないに違いなく、この先どう展開していくのかとても楽しみです。

出来れば読む者の予測を裏切ってくれるような方向に、転がっていってくれることを期待しております。
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人生同様もたもたと・・・・ (窪庭忠男)
2010-10-24 16:42:42

(知恵熱おやじ)様、コメントありがとうございます。
第二部へ向けて、しばらく補給するつもりです。
最近「戦争の勝敗は、戦術よりも兵站にある」などと読んだもので、なるほどと感心したところです。

再び『超短編シリーズ』をはじめます。
合間に、詩篇も・・・・。
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第一部の奇妙な幕切れ (くりたえいじ)
2010-10-25 15:59:34

いつもの"窪庭調"と少し異なり、テンポの速い展開。
そこに、想像していたジャックナイフが登場。
それまでに十二章も積み上げてきた長い道程がようやく峠に差し掛かるか、登り切りましたね。
でもでも、意外な展開であり、第二部への想像と期待が大きくふくらみました。

その間、少し間をおくようですが、じっくりと想を練ってください。
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峠からの見晴らしは・・・・ (窪庭忠男)
2010-10-26 14:16:10

(くりたえいじ)様、やっと峠です。
主人公同様、この先の見通しはまったくありません。
でも、いったん動き出せば困難を切り拓いてくれるものと信じています。

コメントありがとうございました。
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