どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

耳の穴のカナブン(最終回)

2006-12-19 07:03:47 | 連載小説

 モトコは、その夜、旦那様に電話をかけた。
 前々から話をしていた通り、この休みを機に辞めさせてほしいと申し出たのだった。
「奥様の一周忌も過ぎましたし、坊ちゃまも成長されて、もうわたしがそばにいる必要はなくなったように思います」
「・・・・」
 旦那様は、しばらく無言のまま電話口に立っていた。モトコには、目に見えなくてもその場の様子が分かった。
 海老茶の木綿の着物に、同じ色の綿入れを羽織って、受話器の向こうの相手を凝視しているに違いなかった。
 凝視の先にいるのは、モトコである。
 息遣いを量られているようで、思わず身震いが出た。
「キミは、いま、どこに居るんだ?」
 旦那様が、やっと声を発した。「・・・・キミの言い分を、じかに聞いてからでないと、許可は出せないよ」
 諭すように言った後、再びモトコの居場所を訊いた。
「それは、いえません」
 モトコの声は震えていた。
「どうして、いえないんだね?」
 旦那様は、追及を緩めなかった。
「もう東京には居ませんから、お屋敷に参るわけにはいかないのです」
「そうか・・・・」
 再び、旦那様の沈黙がモトコを襲った。
 高鳴る心臓の鼓動が、自身のこめかみに伝わってきた。
 旦那様に、「わかった」と言われたらどうしよう。突き放された場合の辛さが、胸を締め付けた。
 この期に及んで、なお迷っている自分。
 嫌悪を覚えるとともに、転進していく際には誰でも感じる戦きなのだから、仕方がないのだと自分を慰めた。
「まあいい。もう少し考えて、気が変わったら連絡してくれ」
 とりあえず、旦那様との電話は終わった。
 モトコは、ほおーっとため息をついて、金庫の横に置いてある電話台に受話器を戻した。
 まもなく、チリンとベルが鳴った。ほうっておくと、二度目は鳴らなかった。
 どうやら、部屋から外線を利用した場合、客の電話使用料を記録する装置が、作動停止の際あのような音を発するらしかった。
 親子電話のように、盗み聞きされる心配はないのだろうかと、一抹の不安が頭をよぎった。
 そんなシステムになっているはずはないし、宿の者もそれほど暇ではないはずだ。モトコは、すぐに疑念を打ち消して、内湯に入る準備を始めた。
 この日二度目の温泉は、深々と体内にしみいった。昨日からの入浴で、肌が薬効を受け入れやすくなっているのかもしれなかった。
 透き通った湯の下に、腕や胸がたゆたっている。太腿までもが、若さを取り戻して魅惑的に見えた。
 (まだ、捨てたもんじゃないわ)
 モトコは、またも誇らしげな気持ちになっていた。
 お屋敷に入って六年余、最初のうちは帰宅するたびに亭主の求めに応じていたが、情婦の存在に気付いてからは、義務感も欲求もすべて消え去った。
 しだいに嫌悪が強くなり、こころの主導で、からだも閉鎖された。坊ちゃまの世話に熱中することが、それらの空虚を埋めた。
 (わたしは、まだ老け込む齢ではない・・・・)
 とろりとした湯の中で揺らぐ下腹を、摘まんでみた。臍の周りの肉も、まだ健全な厚さに留まっている。
 そんじょそこらの主婦よりは、動き回る日々であった。
 坊ちゃまの送り迎えの合間にも、ハナさんを手伝って掃除や台所仕事に精を出してきた。
 そうした心がけが、いまになってモトコに幸いしたのかもしれなかった。
 長めに入った温泉が、モトコに眠気を運んできた。
 まだ九時を回ったばかりなのに、用意された布団にもぐりこむと、たちまち目蓋が重くなった。
 チリン、チリン・・・・。夢の中でベルが鳴っていた。
 意識に届いてはいたが、そのまま眠りから浮上できずに、音が止むのを待っていた。
 だが、ベルは執拗に鳴り続けていた。何事だろうと訝る気持ちが、モトコを正気に引き戻した。
 部屋の電燈が、明々と点いていた。つけっぱなしで眠ってしまったようだ。
 枕もとの置時計の針は、十二時をまわっていた。
 こんな時刻の合図だから、火事でも起きたのかと、緊急の知らせを想定して飛び起きた。
「はい!」
 受話器に向かって、大声を出した。
「あ、お休みのところ申し訳ございません」
 帳場からだった。「・・・・ただいま、お連れ様がお見えになりました」
「えっ?」
 何のことか分からなかった。
「旦那様がお着きになって、ただいま別のお部屋にご案内いたしましたが、後ほど奥様のところへ伺うので、そのむね知らせておいて欲しいとのことでした」
 女将らしい落ち着いた声が、状況を伝えてよこした。
「旦那様・・・・」との一言で、すべてが明らかになった。ただ一つの疑問を除いて。
 (どうして、この場所が判ったのか?)
 動揺する気持ちの一方で、電話が終わった後すぐさま捜索にかかった旦那様の執念に、怖ろしさを覚えた。
 調べるだけでも、モトコなどには想像もできない。そのうえ、何時間もかけて旅館に駆けつけてきた。おそらく、昨夜のうちに手を打ち、女将に口止めをしてあったのだろう。
 急な予約を入れるには、普通困難が伴うはずだ。そのことと、モトコへの伝言の仕方には、深い関連が感じられる。女将に相当な見返りを与えなければ、成り立たない進行であった。
 モトコは観念した。ここまでやられたら、拒むことはできない。見苦しく抵抗したところで、何の益もないことは明らかであった。
「分かりました。お待ちしています」
 話だけは聞くしかない。聞いたうえで固辞しようと思った。
 三十分ほどして、女将の案内で旦那様がやってきた。
「やあ、遅くなってすまなかったね」
 他人の目を気にしての言葉だった。「・・・・女将、いろいろ気遣いいただいたが、もう大丈夫だ。好い風呂を浴びさせてもらって、疲れも取れた。ありがとう」
 女将は腹を括った表情を残して、襖を閉めた。この男の話を信用したものの、事件が起こっても不思議ではない状況があるからだ。
 足音が去るのを待って、旦那様がやさしい顔付きを見せた。緊張を隠せないモトコを労わるように、柔和な視線を向けた。
「ハナさんから聞いたが、キミ正式に離婚をしたんだってね」
「はい、私事ですので、申し上げませんでしたが・・・・」
 モトコは、見咎められたように、あわてて頭を下げた。
「いや、キミが謝ることではない。謝罪に来たのは、ぼくの方だ。本当に長いあいだ迷惑をかけたが、この機会にぜひ聞いてほしいことがある」
 何でしょうかというように、モトコが顔を上げた。
「唐突だが、ぼくの妻になってくれ。亡くなった女房の一周忌が過ぎたばかりで不謹慎と思われるかもしれないが、いま言わないとキミは去ってしまう。夜中に押しかけたのも、そのためだ。頼む」
 旦那様の腕が伸びてきて、モトコの手をとった。
 温かい手のひらが、モトコの拳を包み込むように、すっぽりと覆った。
「こんなことって、あるのでしょうか」
 モトコの呟きには、肯定や否定の意は含まれていなかった。現実の外に浮かんだ雲を眺めて、呆然としていただけだ。
「ぼくの妻になってくれ!」
 旦那様が、念を押すようにモトコの腕を揺すった。「・・・・トシオの乳母ではなく、ぼくのために戻ってくれ」
 強く揺すられて、思わず首を縦に振っていた。
「そうか、ありがとう」
 モトコは、旦那様の胸に引き寄せられた。
 自分のことを「ぼく」と呼ぶ旦那様が眩しかった。
 後のことは、あまり覚えていない。射すくめられたように身を硬くしたはずだが、そのまま崩れ落ち、体温に温められて緊張が解けた。
 (こんなことって・・・・)
 ぼんやりとした思いを反芻しながら、旦那様に覆われていた。
 (旦那様、重すぎます)
 うっすらと明けたモトコの目に、天井から蜘蛛が糸を伝って降りてくるのが見えた。それは、奥様のメッセージなのだろうか。
 奥様そのものは、すでに旦那様に憑いてやってきている。旦那様の背中に張り付き、共にモトコにのしかかっている。この重さは、その重さだ・・・・。
 わたしがお屋敷の主になることを、ハナさんは祝福してくれるだろうか。
 先の見えない展開のなかで、そのことが一番気になった。

   (完)


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2 コメント

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耳の穴のカナブン (くりた)
2006-12-19 17:15:04
労作、全部読ませてもらいました。
上質な文章で、文学的香りの深い作品なので、おおいに楽しんだものです。
地理的には白金や麻布や九段が出てきて、往時の面影を偲ばせるようでした。白金にに「お屋敷」があって、九段の学校(たぶん、暁星かな)に通い、主な登場人物は、主人公の乳母のほか、坊ちゃま、旦那様、女中などが出てきて、懐かしささえ覚えます。
ただ、確か時代背景が銘記されていないのが気がかりでした。読者の想像に任せるということかな?
最後には乳母が旦那様から求婚されるという意外な展開で終わりましたが、このモトコという乳母の容姿が具体的に想像できなかったのは残念。それなりに魅力があるのでしょうが。
タイトルは、この物語展開を暗示しているのでしょうが、
カナブンと再婚というのは、面白い取り合わせですね。
次作を期待しております。
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モトコの心の揺れが描かれていれば (知恵熱おやじ)
2006-12-20 00:52:32
『耳の穴のカナブン』いつも楽しみに読ませていただいていました。

今はもう失われてしまった懐かしいような時代を感じさせる舞台で進む話には、惹きつけられるものが多くありました。

ただ残念なのは、モトコがふとした一瞬でもいいからご主人様を”一人の男”として見る視線がどこかで描かれていたら、、、と。
自らのその視線に戸惑うモトコを見たかった。小説の醍醐味はそんな微妙な部分にあるような気がするのですが。

それがあればご亭主の存在も、さらに生きたものとして浮かび上がってきたのではないかと思うのですが。
ご主人様にもそれはうっすら伝わるでしょうし、さらにその在るか無しかの揺らめきのような感情は、お坊ちゃまにも深い意味は分からないながらもうっすらと伝わるでしょうし、、、、。

そういう描写の相乗効果で、多分小説としての陰影もより深みを増したのではないかと惜しまれます。

また『耳の穴のカナブン』という独特の状況(耳の中に別の存在がある奇妙な感覚)も、物語の世界と重なり合いピタリのタイトルとなったのではないか、と勝手に思っているのですが。

すみません。勝手なことばかり言って。
この小説はほかにあまりない独特の作品になる可能性を秘めているだけに、ついそんな欲を覚えてしまうのです。

ともかく毎回待ちかね十分に楽しませていただきました。有難うございました。
次のお作にも大いに期待して、頸を長くしています。

2006.12.20 0:55AM 知恵熱おやじ
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