イノウエの話を聞いているうちに、おれの中ではひとつの結論が出ていた。
「こうなったら、別れるしかないな」
何分かあとには、そう答える自分の姿が目に浮かんでいた。
おそらく、イノウエも離婚を念頭に置きながら、おれに背中を押してもらいたくて、今日ここに来たのだろう。
どのように取り繕ってみても、いったん目覚めさせてしまった怪獣は、もう押さえ込むことなど出来ないのだ。
おれは、マンダ書院で一緒に働いていたころの佐鳥さんを思い出し、そういえば、本を抱えてマイクロバスから出て行く反り気味の後ろ姿が、妙に女らしさに欠けていたようだと、いまさらながら思い当たる気がする。
新宿でのささやかな披露宴の席で、花嫁らしく振舞っていた佐鳥さんに普通以上の感銘を覚えたのも、訪問販売に向かう際の彼女の背中に、男だけが持つ悲哀のようなものを見ていたせいかもしれなかった。
佐鳥さんが、たとえ擬似行為とはいえ男の役割を全うし、目の前で解放されていく女を見たとしたら、男になれた自分を誇らしく思ったに相違ないと考えた。
もはや、イノウエは、彼女が頼るべき相手ではなく、うっとうしいだけの存在になっていたのかもしれないだ。
「あなたも、二つの仕事を掛け持ちでやってみなさいよ」
佐鳥さんは、苛立ちもあらわに、そうした意味のことを言ったという。
どちらの甲斐性が上なのか、イノウエに挑んだようなものだ。その上での、決別要請だった。
先のことはともかく、大金持ちの未亡人を満足させ、支持を勝ち取った佐鳥さんは、気遣い、配慮において、イノウエなど及びもつかない能力を発揮したのだと、おれも認めないわけにはいかなかった。
それでいて、佐鳥さんが獲得したものに、賛同を示す気持ちにはなれない。
「きみも可哀想だけど、彼女はもっと哀れだな・・」
おれは、佐鳥さんの行く末を思って、心が痛んだ。
男まがいの生き方を、どこまで貫き通せるのか。
いずれ、自分の正体が朦朧となり、方向さえ見えなくなる日がくるような気がする。だから、その前に、パトロンから大金を引き出して、後の生活に備えればいいのだがと、彼女の身を案じるのだった。
「死ぬほど好きだというなら別だが、毀れたものを直すより、作り直したほうがよほど楽な気がするよ」
おれは、イノウエに感じたままを言った。
彼は、うなずき、しばらく座席に埋まり込んでいた。
おれの脳裏にあったのは、ミナコさんとの来し方だった。自動車内装会社での運命的な出会い以来、たった一本のロープで繋がっているような心細い関係が続いていたが、何ものにも替えられないものとして、ミナコさんを愛し続けてきた自負がある。
その気負いが、イノウエに向けての突き放した言い方になったのかもしれない。
イノウエと分かれたあと、おれは、心に刺さった棘のような痛みに悩まされた。
佐鳥さんとパトロンとの関係を、いかにもありふれたストーリーに仕立てて、解ったつもりになっていたのではないだろうか。
単に、一時の気の迷いということは、ないのだろうか。だとしたら、引きずり込まれた佐鳥さんを、おれたちは救出しなければならないのではないか。
おれは、近付きつつある自動車内装会社社長との対決を正面に見据えながら、横丁から飛び出してきた面妖な問題にも、係わらなければならなかった。
実現可能とは思えなかったが、何とかして『ねね』に潜入し、その実態を探ろうかなどと考えた。酒屋の配達人や、裏方の調理師ならどうだろうか。彼らに頼んで内部の様子を教えてもらうことは出来ないか。
ほとんど意味を成さない空想を重ねているうちに、佐鳥さんとイノウエとの離婚は成立していた。
「こうなったからには、青山一の美容師になってくれよ」
ケヤキが落葉をはじめた表参道の喫茶店で、おれは、おれの願いを熱く語った。「たとえ、住み込みで働いてでも、ここで花を咲かせようよ」
浮かぬ顔のイノウエを前に、おれは、我がことのように涙ぐんでいた。
ひとつのことが動き出すと、ものごと弾みがつくものだ。
ミナコさんは、新年を機にいよいよマンションを出る決心を固め、おれに同意を求めた。
「それはもう、一日も早い方がいいですよ」
「・・と、なると、わたしの行き場所がなくなるんだけど、しばらくここへ置いてくれる?」
ミナコさんは、おどけた風でもなく、微笑みながらおれの顔を見た。
「何をおっしゃいますか。ここは、もともとミナコさんの家じゃないですか」
おれの方が、照れ隠しにはしゃいでいた。「・・ぼくだって、離れたままでやきもきするのは、辛かったんですよ」
もう、放さないよと、ミナコさんの肩に手を回して引き寄せた。
寝物語に、初めてマンションを与えられたときの経緯が話された。
九段下の大手自動車販売会社からスカウトされて、好待遇で迎えられた際の約束の一つだった。
賃貸マンションとはいえ、新築間もない建物は、ミナコさんを有頂天にさせた。気の利いたエントランスと、ニ機のエレベーターを備えた住居の一室を、家賃ゼロで使っていいというのだ。
「会社の住居手当で出るんですか」
「それは、ちょっと無理だけど、まあ心配しなくてもいいですよ」
少し腑に落ちないものを感じたが、いったん腰を落ち着けてみると、たちまち快適さに慣らされてしまった。
ころあいを見たのだろう、マンションの賃料が社長のポケットマネーから支払われていることを、本人の口から知らされた。
巧妙だった。
ミナコさんは、いつしか社長の来訪を受け入れていた。会社では、経理の責任者に抜擢され、待遇もさらに好くなった。
一年、二年と経るうちに、ミナコさんは会社の利益圧縮に手を貸すようになった。社長の狙いは、初めからそこにあったのだった。
「だから、ミナコさんを殴ってでも、放したくなかったんだね」
おれの問いに、うなずいた。
「でも、とうとう諦めたということ?」さらに、確かめた。
「諦めたわけではないでしょう。ただ、わたしが嫌だといえば、それ以上どうしようもないんじゃない」
少なくとも、ミナコさんがマンションを出ることは阻止できない。当然、自動車内装会社社長とミナコさんの関係は、解消されることになる。
後に残るのは、会社経理の問題だけだ。おれには見当もつかないが、互いに折り合っていけるなら、さほど難しい事態にはなりそうもないと、心中ホッとしたのは事実だった。
「じゃあ、松が取れたら引越ししようか」
おれは、嬉々としてミナコさんに甘えた。
「仕事、大丈夫なの?」
「だって、なるべく早く来てもらいたいもの」
おれは、あの、白山上の憎らしいマンションが、おれの意識から消し去られる日を、心底待ち望んでいたのだ。
屈辱のバリアが取り払われたら、おれは、もっと自由に羽ばたける。
ミナコさんと二人、こころを許しあった友人のように、旅に出るのもいい。ほとんど忘れかけていた遺跡めぐりへの欲求が甦り、おれの内部で滾り立つ。
まず、手始めは東北だ。
芭蕉が辿った『奥の細道』を、要所要所を押さえながら、回ってみたい。
白河、松島、一関、最上川から出羽三山を仰ぎ見て、象潟あたりまで、限られた日数でもいいから遊行してみたい。
「ねえ、ミナコさん。五月になったら、新婚旅行しようか」
おれの胸元で、ミナコさんがくすっと笑った。
(続く)
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