一月末の引越しを目途に、おれは段取りをつけることにした。
「今度の休みの日に、荷物の下見に行ってもいいですか」
「そうねえ・・」
ミナコさんは、ためらいを見せた。「大きなものは、みな処分するつもりなんだけど」
できるだけ、おれの手を煩わせたくないという気持ちは、わからないわけではなかった。「・・でも、引っ越しって、なかなか考えた通りに行かないものですよ。こっちも狭いところだから、何をどこへ置くか、多少の見積もりをしておかないと拙いでしょう」
おれの押しに屈して、ミナコさんも同意した。
当日、おれが白山上のマンションに着くと、すでにミナコさんは身の回りの衣類などを、堅牢なプラスチックの箱に収納しはじめていた。
「忙しいのに、ごめんなさい」
おれを迎えて、少し恥ずかしそうにした。
太腿から足首にかけて漏斗状に細くなる黒のスキー用ジャージに、バイオレットのブルゾンをまとい、髪はオレンジ色のスカーフでまとめていた。
「ほう・・」
おれは、思わずため息を漏らしていた。
期待以上の反応だったのか、ミナコさんはうれしそうに口元を緩めた。
「この前話したとおり、嵩張るものは、みな処分するわ」
特に家具類は、テーブル、ソファー、それにベッドも、区内の古道具店に引き取らせるつもりだと、指差してみせた。
おれたちの部屋に、新たに加わるものは、テレビ、トースター、洗濯機など、いくつかの電化製品と、小ぶりの食器棚だけだった。
2DKの一間は、ミナコさんの専用の部屋にする。
そこには、三面鏡と、パイプ式の衣装ケースが持ち込まれるはずだ。
広い方の部屋は、共用のスペースとして、リビングルーム兼おれの寝室となる予定だった。
「わたしが行くと、窮屈になるでしょう」
「いや、大歓迎ですよ。それに、洗濯機みたいに、欲しくても買えなかったものが多いから、助かりますよ」
食器棚も、そうしたものの一つだった。
ミナコさんが捨て切れずにダンボール箱に詰めた客用のカップや皿は、朝晩使って生活に彩を加えることができる。
テレビも、毛嫌いしなければ、ニュースや天気予報の入手に欠かせないものとなるだろう。
食器棚の上にテレビを載せるアイデアが浮かび、それなら、リビングルームもある程度の広さが確保されるだろうと、イメージを描くことができた。
「わたしが持って行きたい物は、それくらいだけど、どうかしら?」
「うん、この程度なら小型トラック一台でオーケーだし、運送代も安く済みそうですね」
「うれしいなあ、安いのって」
ミナコさんは、また衣類の整理に戻っていった。
「この衣装ケース、組み立て式なんだけど、なんとかならないかしら」
一段落ついたところで、ミナコさんがおれの顔を見た。
おれは、花柄のビニールで覆われた収納ボックスをめくってみた。太いパイプで枠組みを作り、そこへ別のパイプを通して、ハンガーが掛けられるように出来ていた。
確かめると、パイプは数箇所で分離できるようになっていて、繋ぎ目はパイプ同士を差し込んだあと、手回しのネジで固定するようになっていた。
おれは、つぎつぎとネジを緩め、パイプを外した。くたくたと足下にへたり込んだビニールをたたみ終わると、ミナコさんは大仰に喜んで見せた。
「わたし、ネジ回しがいるかと思って用意していたんだけど、必要なかったわね」
「ええ、全然・・」
説明にかかろうとしたとき、部屋のチャイムが鳴った。
「はーい」
ミナコさんは、手にしていたドライバーをその場に置いて、玄関に走った。
カチャッと鍵を外す音がして、すぐに何かを制するようなミナコさんの声がした。
おれは、ミナコさんが投げ出していったドライバーを拾い上げ、ゆっくりと玄関方向へ歩いていった。
「お願いだから、きょうは帰ってください」
数センチ空いたドアを挟んで、ミナコさんが誰かとやり取りしていた。
「なんだ、誰かいるのか」
強い力でドアが引っ張られ、限界まで達したチェーンが暴力的な音を立てた。
(あいつだ!)
おれの眼裏に、自動車内装会社社長の酷薄そうな顔が浮かんだ。
ミナコさんは、威嚇に抗してドアを引き戻そうとしている。チェーンがあるのだから、そんな必要はないはずのだが、ドアノブに縋り付き、尻を突き出して引っ張っていた。
いまにも、引きちぎられるのではないか。おれも、ミナコさんと同様に恐怖を覚えた。
その瞬間、血が逆流し、怯えが別のものに変わった。背筋を走り抜けた戦慄の青い軌跡を打ち消すように、紅い炎が駆け上がってきたのだ。
「この野郎、みっともない真似をするんじゃねえ」
おれは、ドアの隙間から一瞬捉えた社長の眉間に向かって、怒声を投げつけた。
ひとたび声を出してみると、おれはもう高揚の頂点にいた。怖いものなどまったく無くなった。
七尾の青柏祭りで、似たような体験をした。デカ山によじ登ろうとして、山町の悪童たちと争った場面が、目の前に甦った。
「ミナコさん、ちょうど好い機会だ。こいつと、話をつけてやる」
おれは、ミナコさんの前に体を割り込ませて、チェーンを外した。
「やっぱり、おまえか。この盗人猫めが!」
「うるせえ、はいれよ」
おれは、長身の社長を促すように、背を向けた。
いきなり、襲い掛かってくる気配があった。それが、おれの誘いでもあった。首尾のほどは判らないが、切れやすい社長に仕掛けさせることで、後の展開を有利にする転機が生じるのだ。
おれは背後から、強い力で首を絞められた。
耳元で、ミナコさんの悲鳴があがった。
瞬間、顎を引いたのは、とっさの防御本能だったのだろう。強さにあこがれて入った高校の柔道部で、何度かオチそうになったことがある。それよりは、よほど余裕があった。
おれの脳裏に、辻回しの情景が浮かんだ。
塗師町の狭い路地で、軒すれすれに方向転換をするデカ山の重量が、おれの肩にのしかかってくるようだった。
大勢の若衆が、エンヤエンヤと気合をかけ、大梃子でデカ山の前車を浮かせる。その瞬間、曳山の下に潜り込んでいた『車元』が、直角に地車を取り付ける。子供心に、恐怖と興奮に襲われ、小便をちびりそうになる。
おれは、そのとき『車元』になっていたようだ。頭上でギシギシと軋みながら浮き始める大車輪の軸に、身を低くして地車を入れる。
再び若衆の力で曳かれると、デカ山は傾きながら方向転換を果たし、別の路地に入っていく。
さしずめ、おれは地車、あいつはデカ山だった。
自由な右肘で奴の脇腹を突くと、一瞬おれの首にかかる力が弱まり、今度は、わずかに離れた体の隙間を狙って、同じ右肘を奴の鳩尾に打ち込んだ。
「うっ」と声をあげて、他愛なくのしかかってくる巨体を、体落しのように投げ捨てる。おれは、すばやく馬乗りになって、持っていたドライバーを奴の喉元に突きつけた。
「おい、てめえ、さっき、おれにむかって、なんとぬかした」
一語、一語、噛んで含めるように、認識させた。
おれの胸にも、頭にも、滾るものが充満していた。
「たしか、ぬすっとネコといったよなあ」
そういわれた自分が、可哀想で仕方がないという、不思議な感情がおれを支配していた。「・・おれは、さあ、おまえみたいに、カネの力で女をどうこうする男じゃないんだよ。ミナコさんとは、こころから愛し合っているんだから、さっきの言葉は、訂正してもらうよ」
おれは、おそらく悲しそうな目で、社長の瞳を覗き込んだはずだ。おれの言うとおりにしなければ、そのまま喉仏にプラスのドライバーを埋め込んでしまいそうな怖さが、おれを戦かせていたのだから。
自動車内装会社社長の奢りは、すでに瞳の中から消えていた。口移しのように、おれの言葉を復唱する唇がふるえていたが、今後どのように復讐を企てても断念せざるを得ないほどの屈辱を、おれは奴の耳に吹き込んだ。
(続く)
「今度の休みの日に、荷物の下見に行ってもいいですか」
「そうねえ・・」
ミナコさんは、ためらいを見せた。「大きなものは、みな処分するつもりなんだけど」
できるだけ、おれの手を煩わせたくないという気持ちは、わからないわけではなかった。「・・でも、引っ越しって、なかなか考えた通りに行かないものですよ。こっちも狭いところだから、何をどこへ置くか、多少の見積もりをしておかないと拙いでしょう」
おれの押しに屈して、ミナコさんも同意した。
当日、おれが白山上のマンションに着くと、すでにミナコさんは身の回りの衣類などを、堅牢なプラスチックの箱に収納しはじめていた。
「忙しいのに、ごめんなさい」
おれを迎えて、少し恥ずかしそうにした。
太腿から足首にかけて漏斗状に細くなる黒のスキー用ジャージに、バイオレットのブルゾンをまとい、髪はオレンジ色のスカーフでまとめていた。
「ほう・・」
おれは、思わずため息を漏らしていた。
期待以上の反応だったのか、ミナコさんはうれしそうに口元を緩めた。
「この前話したとおり、嵩張るものは、みな処分するわ」
特に家具類は、テーブル、ソファー、それにベッドも、区内の古道具店に引き取らせるつもりだと、指差してみせた。
おれたちの部屋に、新たに加わるものは、テレビ、トースター、洗濯機など、いくつかの電化製品と、小ぶりの食器棚だけだった。
2DKの一間は、ミナコさんの専用の部屋にする。
そこには、三面鏡と、パイプ式の衣装ケースが持ち込まれるはずだ。
広い方の部屋は、共用のスペースとして、リビングルーム兼おれの寝室となる予定だった。
「わたしが行くと、窮屈になるでしょう」
「いや、大歓迎ですよ。それに、洗濯機みたいに、欲しくても買えなかったものが多いから、助かりますよ」
食器棚も、そうしたものの一つだった。
ミナコさんが捨て切れずにダンボール箱に詰めた客用のカップや皿は、朝晩使って生活に彩を加えることができる。
テレビも、毛嫌いしなければ、ニュースや天気予報の入手に欠かせないものとなるだろう。
食器棚の上にテレビを載せるアイデアが浮かび、それなら、リビングルームもある程度の広さが確保されるだろうと、イメージを描くことができた。
「わたしが持って行きたい物は、それくらいだけど、どうかしら?」
「うん、この程度なら小型トラック一台でオーケーだし、運送代も安く済みそうですね」
「うれしいなあ、安いのって」
ミナコさんは、また衣類の整理に戻っていった。
「この衣装ケース、組み立て式なんだけど、なんとかならないかしら」
一段落ついたところで、ミナコさんがおれの顔を見た。
おれは、花柄のビニールで覆われた収納ボックスをめくってみた。太いパイプで枠組みを作り、そこへ別のパイプを通して、ハンガーが掛けられるように出来ていた。
確かめると、パイプは数箇所で分離できるようになっていて、繋ぎ目はパイプ同士を差し込んだあと、手回しのネジで固定するようになっていた。
おれは、つぎつぎとネジを緩め、パイプを外した。くたくたと足下にへたり込んだビニールをたたみ終わると、ミナコさんは大仰に喜んで見せた。
「わたし、ネジ回しがいるかと思って用意していたんだけど、必要なかったわね」
「ええ、全然・・」
説明にかかろうとしたとき、部屋のチャイムが鳴った。
「はーい」
ミナコさんは、手にしていたドライバーをその場に置いて、玄関に走った。
カチャッと鍵を外す音がして、すぐに何かを制するようなミナコさんの声がした。
おれは、ミナコさんが投げ出していったドライバーを拾い上げ、ゆっくりと玄関方向へ歩いていった。
「お願いだから、きょうは帰ってください」
数センチ空いたドアを挟んで、ミナコさんが誰かとやり取りしていた。
「なんだ、誰かいるのか」
強い力でドアが引っ張られ、限界まで達したチェーンが暴力的な音を立てた。
(あいつだ!)
おれの眼裏に、自動車内装会社社長の酷薄そうな顔が浮かんだ。
ミナコさんは、威嚇に抗してドアを引き戻そうとしている。チェーンがあるのだから、そんな必要はないはずのだが、ドアノブに縋り付き、尻を突き出して引っ張っていた。
いまにも、引きちぎられるのではないか。おれも、ミナコさんと同様に恐怖を覚えた。
その瞬間、血が逆流し、怯えが別のものに変わった。背筋を走り抜けた戦慄の青い軌跡を打ち消すように、紅い炎が駆け上がってきたのだ。
「この野郎、みっともない真似をするんじゃねえ」
おれは、ドアの隙間から一瞬捉えた社長の眉間に向かって、怒声を投げつけた。
ひとたび声を出してみると、おれはもう高揚の頂点にいた。怖いものなどまったく無くなった。
七尾の青柏祭りで、似たような体験をした。デカ山によじ登ろうとして、山町の悪童たちと争った場面が、目の前に甦った。
「ミナコさん、ちょうど好い機会だ。こいつと、話をつけてやる」
おれは、ミナコさんの前に体を割り込ませて、チェーンを外した。
「やっぱり、おまえか。この盗人猫めが!」
「うるせえ、はいれよ」
おれは、長身の社長を促すように、背を向けた。
いきなり、襲い掛かってくる気配があった。それが、おれの誘いでもあった。首尾のほどは判らないが、切れやすい社長に仕掛けさせることで、後の展開を有利にする転機が生じるのだ。
おれは背後から、強い力で首を絞められた。
耳元で、ミナコさんの悲鳴があがった。
瞬間、顎を引いたのは、とっさの防御本能だったのだろう。強さにあこがれて入った高校の柔道部で、何度かオチそうになったことがある。それよりは、よほど余裕があった。
おれの脳裏に、辻回しの情景が浮かんだ。
塗師町の狭い路地で、軒すれすれに方向転換をするデカ山の重量が、おれの肩にのしかかってくるようだった。
大勢の若衆が、エンヤエンヤと気合をかけ、大梃子でデカ山の前車を浮かせる。その瞬間、曳山の下に潜り込んでいた『車元』が、直角に地車を取り付ける。子供心に、恐怖と興奮に襲われ、小便をちびりそうになる。
おれは、そのとき『車元』になっていたようだ。頭上でギシギシと軋みながら浮き始める大車輪の軸に、身を低くして地車を入れる。
再び若衆の力で曳かれると、デカ山は傾きながら方向転換を果たし、別の路地に入っていく。
さしずめ、おれは地車、あいつはデカ山だった。
自由な右肘で奴の脇腹を突くと、一瞬おれの首にかかる力が弱まり、今度は、わずかに離れた体の隙間を狙って、同じ右肘を奴の鳩尾に打ち込んだ。
「うっ」と声をあげて、他愛なくのしかかってくる巨体を、体落しのように投げ捨てる。おれは、すばやく馬乗りになって、持っていたドライバーを奴の喉元に突きつけた。
「おい、てめえ、さっき、おれにむかって、なんとぬかした」
一語、一語、噛んで含めるように、認識させた。
おれの胸にも、頭にも、滾るものが充満していた。
「たしか、ぬすっとネコといったよなあ」
そういわれた自分が、可哀想で仕方がないという、不思議な感情がおれを支配していた。「・・おれは、さあ、おまえみたいに、カネの力で女をどうこうする男じゃないんだよ。ミナコさんとは、こころから愛し合っているんだから、さっきの言葉は、訂正してもらうよ」
おれは、おそらく悲しそうな目で、社長の瞳を覗き込んだはずだ。おれの言うとおりにしなければ、そのまま喉仏にプラスのドライバーを埋め込んでしまいそうな怖さが、おれを戦かせていたのだから。
自動車内装会社社長の奢りは、すでに瞳の中から消えていた。口移しのように、おれの言葉を復唱する唇がふるえていたが、今後どのように復讐を企てても断念せざるを得ないほどの屈辱を、おれは奴の耳に吹き込んだ。
(続く)
待って待ってやっと獣性を見せてくれましたね。
胸の支えが取れたようでスカッとしたよ。
それにしても上手いねー。
その瞬間に「デカ山」と「車元」を持ってくるとは――これ以上ないアイデアとタイミング。
主人公の暴力が人間本来に秘められた「正当な霊性」から発せられたかのような感覚を、無意識のうちに感じさせられる。
なんか嬉しいですね。こういう暴力シーンは。
このとき彼が、どういう凄いことを相手の耳元で囁いたのか。
ぞくぞくするね、次回を読むのが。
楽しみにしていますぞ。
2006.4.27 3:25分AM