どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

<おれ>という獣への鎮魂歌 (4)

2006-02-16 08:02:25 | 連載小説
 夜中に、一度目が覚めた。
 おれは押入れを出て、廊下の突き当たりにある共同トイレに向かった。
 トイレと背中合わせに設置された炊事場も、明かりを落として静まり返っている。こうして水場を一箇所にまとめた作りは、住人の感情さえ斟酌しなければ合理的なのかもしれなかった。
 ともあれ、おれが通ってきた廊下を挟んで左右に五部屋ずつ並んだ三畳間は、どの部屋も電気が消えていた。最近引っ越していった一部屋を除いて、すべて入居者がいるはずなのに、眠りの底で死にかけているのか、呼吸の気配さえ伝わってこなかった。
 おれは、小用便器に勢いよく放尿した。体を保温していた小水が失われたことで、急に寒さを覚えた。ぶるっと身震いしながら、便器の上部にある金属のボタンを押した。水が薄い膜となって、湾曲した陶器の肌を流れ落ちた。レンコンの断面のようなろ過器が、ひしめき合う水流を飲み込んでいく。
 排水管が細いのか、ときおりゴボゴボと音が突き上げてくることがある。
 入居当初、おれはその耳障りな音になじめなかった。いまは、深夜だれかがその場所にいると感じることが、心の安らぎになっていた。
 どの部屋の住人にも届く信号。互いに挨拶はなくても、その存在を意識の底から浮かび上がらせ、ほのかな共感を抱かせる合図の音。
 おれは、もう一度ボタンを押し、細い水の束がもつれ合いながら吸い込まれていくあたりを、ぼうっと眺めていた。ほどなく排水管がげっぷをするように水を噴き戻した。振動をともなう音が、おれをようやく覚醒させた。
 あるいは、それまで夢を見ていたのではないか。・・おれは、この場に至った自分の足取りを振り返って、妙にあやふやな感覚にとらわれていた。
 子供の頃、実家の縁側から庭に放尿している夢を見て、夢の最中に痛恨の思いで目覚めたことがある。惧れたとおり時すでに遅く、寝巻きも布団も水浸しになっていた。
 その時の恐怖心が、記憶の彼方から甦ってきたのだろうか。いま胸のあたりにわだかまる動悸の名残りを手繰って、おれはその感覚にこだわった。いやいや、つい先刻おれの身を通過したばかりの生々しさがある。
 おれを訪れたのは、いったいどんな夢だったのか。再生させる手立ては見つけられなかった。ただ、将来への不安がおれの中に満ちてきて、泡のように夢をはじけさせ、はじけた夢の残骸を今度は跡形もなく持ち去ったのだろうと推理した。
 翌朝、おれは凪の海から浮上するかたちで半身を起こした。
 またしても、布団の中で腐るような時間を引きずる羽目になったことを自嘲し、持って行き場のない怒りにさいなまれていた。
 頭がふらふらした。深く眠れたのかどうか、分からなかった。机の上の目覚まし時計は、電池が切れたまま八時を指している。三日前に、おれを起こそうとして力尽きた奴だ。
 押入れから出て、畳に着地する。古い家具に占領されて、わずかに残った一畳ほどのスペースが、おれの自由にできる空間だった。
 西向きの窓に掛かったカーテンを引くと、早春を思わせる陽光が隣接する建物の屋根を照らしていた。
 好きこのんで日当たりの悪い部屋を選んだわけではない。心もち家賃が安かったのと、そこが空いていたというめぐり合わせによるものだ。廊下を挟んで西側の部屋は、東側に比べて住人の出入りが多かった。そのために入居できた。
 何時だろう。おれは、腕時計を見た。
 十時を回っていた。
 日差しが暖かそうに見えたのは、すでに太陽が高くなっていたからだ。大家の家の壁も窓も、陽を吸い、光を返している。それに引き換え、おれの部屋は怠惰への罰のように太陽から見放されている。
 おれは、おれの今日の予定を頭の中で捜してみた。
 予定はまったく見つからなかった。
 もう一度寝床に戻って、繭のように丸まった。外側からおれを包み込む暖かい膜が、何もかも忘れて眠るがいいと囁きかける。
 二ヶ月前に辞めた自動車内装会社のことなど、いまは思い出さなくてもいい。不始末を見つかって喧嘩別れしたいきさつなど、眠りの海に沈めておけばいいと、心地好い薄絹の感触がいっそう小さくなったおれを慰めた。
 つぎに目覚めたとき、腕時計の針は午後一時を指していた。
 左手首を動かしたことで、脂のように溶けていた細胞が元の配列に戻ろうとしたようだ。胃と腸が急に蠕動を始め、おれは昨夜以来なにも口にしていないことを思い出した。
 ひとたび空腹を意識すると、みぞおちの辺りを絞り上げられるような痛みを感じた。昨夜の酒食も、食い溜めの効果には程遠かったようだ。無為な日々を過ごしていても腹だけは減るのだ。
 おれは押入れの上段から降り、そのまま下段の暗がりに頭を突っ込んだ。
 段ボール箱から、即席ラーメンを取り出す。すぐ横にあるプラスチックの籠から、古新聞に包んだ白菜を抱え上げる。湿った印刷物の匂いを外して手のひらに載せると、ずっしりとした重みが掛かる。
 おれは三枚の葉を丁寧に引き剥がし、そのために幾分やせ細った裸身をいとおしむように眺めた。

   (続く)
 
 
 

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