その夜、おれは大塚駅南口のジンギスカン料理店で、ビール一本と慣れない日本酒を飲んだ。お銚子にして二本の二級酒は、あまりうまいとは思えなかった。それでも、目の前で湯気まじりの煙を上げはじめた羊肉をほおばりながら、久しぶりの脂の味を酒で流し込んだ。
どんな境遇に置かれても、その場その時の悦びはあるものだ。
おれは、まだ熱をもったまま食道を下り、胃のなかに落ちていく咀嚼物を、おれの細胞が先を争って迎え入れるのを感じていた。
皿いっぱいに盛られたキャベツの甘さが、マトンの味をいっそう引き立てた。
燗酒、肉、キャベツ、大盛り飯、それに特製のタレがからんで、つかの間の宴を堪能させてくれた。
ビールと酒が、これまでに無い酔いをもたらした。おれの足運びが怪しくなっているのを、自分でも確かめることができた。
飲食店街が途切れ、西巣鴨方面へ向かう上り坂にさしかかったとき、路地からすっと現れた影のような男が斜め後ろからおれに声をかけた。
「にいちゃん、おもろい写真があるんやけど、見てみんか・・」
なれなれしい呼びかけのなかに、相手の警戒心を解きほぐす柔和なひびきが潜んでいた。
おれは、酔眼を凝らして声の主を見た。
ちょうど街灯が頭上にあって、近付いてくる正ちゃん帽の男を明らかにしていった。
「にいちゃん、めったに手に入らん極上ものや。ひとり遊びとか、はじめてのお寝んねとか、仰山あるで。どや?」
男の筋張った手がジャンパーの下から現れて、数葉の写真を扇のように広げて見せた。
反射的に顔を近付けようとするおれの動きを察して、男が手のひらを返した。手品師のカード扱いを思わせる素早さだった。
それでも、おれはセーラー服を着た女のあらわな太ももを目に焼き付けていた。 ほかに、若い男女がもつれ合う構図の写真もあったが、巧みに重ねられた扇のかなめ部分に隠されて、くすぶる欲望だけが取り残されていた。
「どや、にいちゃん、なんぼ持っとる?」
「いま飯を食ってしまったから、あんまり無いですよ」
おれは、アノラックのポケットから、きょう貰ったばかりの給料袋を取り出した。
とたんに、男の目つきが変わった。
「いくら入っとるんや」
さっと手が伸びて、おれの指の間から袋を掠め取った。
「見ちゃだめだ!」
言う間もなく、男は袋の中を覗き込んだ。
「え、これだけかいな・・」
落胆した声を漏らして、たった一枚残っていた五百円札を抜き出した。
「しゃあないな、これじゃこっちの持ち出しや」
ぶつぶつ呟きながら、男は三枚組みのエロ写真をおれに押し付けた。
おれは手を出して、それを受け取った。商談成立のほっとした空気が流れた。
マンダ書院で稼いだわずかなカネは、ほんの数時間のうちに消えていった。おれはアパートに戻ると、アノラックを脱ぎ捨て、小机の上の薬缶に口をつけて湯冷ましを飲んだ。
胃の中から、からだ全体に寒さが広がった。
おれは押入れを開け、上段に敷いたままの万年床をまさぐり、電気あんかのスイッチを入れた。
シャツも替えないまま、上から綿入れを羽織り、踏み台を使って布団にもぐりこんだ。足であんかを探り当てると、足裏にあたる部分の布地がようやく温もり始めていた。
体温と寝床の温度が融和した。おれは手にしたままの角封筒を胸元に出し、逆さにして写真を振り落とした。
たしかに三枚あった。あの痩せた初老の男は、いかがわしい仕事をしていても、嘘はつかなかった。西の方から流れてきているのだろう、先にあてがある人生とは思えないが、そうした男に共感を覚えてしまう自分に戸惑いを感じていた。
おれは、エロ写真の中の女を食い入るように見つめた。なんの後ろめたさも無いあっけらかんとした表情をしていた。
(どんな事情で、こんなことをしているのか)
いつも最初に去来する思いに気付いて、おれは苦笑した。
見当違いの同情が、むしろ侮蔑の対象にしか過ぎないことを、おれはその手の雑誌で読んで知っていた。ストリップ劇場の踊り子は、無数の客より間違いなく優位に立っている。彼女らはスターなのだ。
エロ写真の中の女といえども、いま欲情する男の遥か上位にいた。
からみつく相方もおれも、手玉に取られて果てるだけだ。やがて、倦怠が戻ってくる。そのことだけは確信できた。
(続く)
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