正夫が新宿で屯する一人の少年と知り合ったのは、名曲喫茶『風月堂』のすぐ横の通路だった。
長い髪をストローハットにたくし込み、白黒縦縞の長ズボンを穿いている。
裾の方がやや広いのは、近頃見かけるフーテンの衣装を意識しているのだろうか。
東口に屯する若者たちと違うのは、紫色のシャツから抜き出た長い首の清潔さだった。
「すいません、ぼく、モーリーといいます。いま、ぼく困っているんです。助けていただけませんか」
ストレートにお金を貸してくれと言われ、即座に拒絶の言葉を頭にめぐらしたが、少年のかもし出す幼い雰囲気につい断りを言い損ねた。
「いったい、何に使うんだい?」
「はい、キャッシーのコーヒー代を払わないと捕まっちゃうんです」
「コーヒー代って、いくらかなあ」
好奇心がどんどん膨らんでいった。
結局、数百円を渡してやると、モーリーと名乗った少年はまもなく軟体動物のように芯のなくなった女の子を支えて店の外に出てきた。
「お兄さん、すいません。補導されずに済みました」
丁寧な言葉づかいが、おのずから彼の家庭環境をうかがわせた。「・・・・キャッシー、ほら、お礼を言いなよ」
店内でクスリでも服用したのか、巷で流行のラリった状態になっている。
「あり・・がと・・ござい・・す・・」
モーリーが支えていないと、そのまま地面に顔を突っ込みそうな危うさで頭を下げた。
「あ、もう、止そうよ」
正夫は少年を制した。「・・・・それより、このままじゃしょうがないだろう。どこかで覚まそうか」
兄貴扱いされて気を良くした正夫は、二人と別れがたい気持ちになって、西武新宿駅に面した喫茶店に案内した。
風月堂とちがって、こちらにはさまざまな生活の臭いを発散する人間が出入りした。
セールスマンや待ち合わせの男女、通りがかりの老人、デパートの袋を抱えた主婦などが、めまぐるしく出入りした。
昼間から様子のおかしい混血少女をまじえた三人連れを、従業員も客もあまり気にとめていなかった。
「それで、きみたち学校は?」
ウィークデイの午後、名前を名乗りあったあと、正夫はありふれた質問をした。
「ぼく、麻布です。キャッシーはぼくの母の学校に通っています」
モーリーと名乗った少年は、勘違いしたのか学校名まで口にした。
キャッシーの方は、渋谷にある森あさこ服装学院という専門学校で学んでいるらしかった。
「風月堂へは、よく行くの?」
「はい、ときどき・・・・」
評判になっている外国からのバックパッカーに接触して、自由でラフな交流を楽しんでいるらしかった。
いつもは、この日のモーリーたちのように正体をなくしているわけではない。
サリンジャーやマラルメについて意見を交わしたりしたという。
キャッシーにとっても、父方の母国語をおさらいするチャンスであった。
彼らが楽しく話していると、時に語学が得意な男が割り込んできて、したり顔に持論をまくし立てたりする。
聞くことより、喋ることに夢中の種族がよく現れるらしい。
そうしたとき、モーリーはポケットからフーテンならではの小道具を持ち出すのだという。
シンナー吸引用のビニール袋、詰め替え用の小瓶を取り出すと、たいがいは中毒患者との関わりを敬遠して遠ざかる。
ぎょっとして席を立つ知識人のあわてぶりを話すことで、外人かぶれの男たちを遠まわしに批判しているようだ。
モーリーの話を聞いていると、正夫も感じたことのある『風月堂』の雰囲気が、煙草やマリファナの煙とともに臭ってきた。
人間の放つざわめき、体臭、雑念などが、懐かしさを伴って浮かんでくる。
一人ひとりの姿勢や、心のかたちを、店内の空気と音楽が見えない柱で支えている。
正夫はモーリーの示すエピソードに、共感の笑いで応えた。
最新のカルチャーをもたらす少年を、傍らに置いておける。
つよく意識したわけではないが、偶然の出逢いにわが身の幸運を感じたのだった。
『風月堂』が学識者や芸術家の他に学生運動家などのたまり場となっていたのは、60年代半ばからのことである。
この店が新しい文化の発信地となったきっかけは、海外の雑誌が「若き芸術家の卵たちが集う日本のグリニッジ・ヴィレッジ」と紹介したかららしい。
それを読んだ外国からのバックパッカーが大挙して訪れ、新しもの好きの日本の知識人の間でさらに評判を呼んだ。
当時はまだ外国人の姿がめずらしく、彼らが店内に滞在するだけで特別のイメージが作られた。
また、もともとの常連客だった作家・詩人・映像クリエーター・舞台俳優などへの憧れから、同じ空気を吸える環境に引き寄せられる若者も多かった。
その後、カウンターカルチャーの象徴と目されるようになってからは、一歩先んじた雰囲気にまみえたい若者たちの聖地となった。
この場所にいることで、時代の旗手になったような錯覚を持つことができたのである。
山野正夫も、学生生活の行き詰まりからくる気だるい感覚を持って、しばしばこの空間に足を運んでいた。
夕子とも、仕事前の数時間を『風月堂』の椅子で思索的に過ごすことがあった。
正夫はその頃、サルトルを読み、夕子相手に不条理についての解釈を述べたりした。
カミュにも傾倒し、『シューシュポスの神話』と発語することに悦びを感じていた。
それまでサガンを読んでいた夕子も、紀伊国屋書店からボーボワールの著書を買い求めてきて女性の自立を唱えたりした。
そのころ、先鋭的な一部の学生運動家は、理論武装と過激な行動で一種のヒロイズムを体感していた。
彼らの活動に乗り遅れた学生たちは、しだいに無気力の度合いを強めた。
学生運動から離れることで、「ヒヨった」などと蔑まれ、大いに傷付く学生もいた。
社会的規範から逸脱できない青年たちには、『風月堂』のようなまやかし的逃避場所が必要だったのである。
やがて、誰の目にも学生運動の終着点が想像できるようになった。
セクト化したグループは、相変わらず相手の殲滅を唱えてテロに明け暮れていたが、権力側はそれを巧みに利用した。
殺し合いをさせながら、最終的にすべての活動家を排除しようという遠謀を抱いていた。
そうした権力の企みに、学生たちは気づいていたかどうか。
当面の敵を斃すことに夢中で、狙いに気づいたとしても、有効な手立てを見つけられなかったのかもしれない。
やがて、疑心暗鬼のうちに目標を見失った学生たちは、団結力を殺がれていった。
正夫たちとは別に、ヒッピーやフーテンと呼ばれる連中もまた、荒廃した社会に将来の夢を抱けなくなっていた。
正夫は初め彼らを苦々しく眺めていたが、いまや同情すべき点を見出した。
正夫とモーリーの交流は、互いのシンパシーを礎に急速に深まっていった。
「山野さん、荻村さんとは、どこで知り合ったのですか」
正夫と夕子が向かい合って喋っている席に、モーリーが滑り込んできたことがある。
この日はモーリー一人での来店らしく、傍らにキャッシーの姿はなかった。
「大学の講堂・・・・」
「始業式か何かですか」
「いや、紛争。・・・・機動隊に捕まった仲だよ」
正夫は、前後の状況を隠さずに話した。
「へえ、それで仲がいいんですね」
「まあな」
正夫と夕子は、思わず顔を見合わせた。
「いつか、結婚するんですか」
思わぬ切込みに、二人はたじたじとなっていた。
互いの空虚を埋めようとするかのように、激しく肉体を求め合った正夫と夕子だが、この先どのように愛をつなげていけば好いのか、確信を持てなかったのである。
モーリーが森あさこ服飾学院の御曹司であることが分かった時点で、森少年への警戒感は薄れていた。
しかし、このような角度から踏み込まれるとは、予想もしなかった。
「キミたちは、どうするのかな?」
正夫の切り返しに、夕子が下を向いた。
モーリーの場合、青春の一ページをラリった文字で埋めたとしても、時が経てばたちまち元通りの筆跡に戻りそうな気がした。
モーリーへの期待が、たとい見込み違いとしても、正夫はモーリーの素直さに理屈抜きに魅了されていた。
シンナーに脳細胞まで破壊されてしまった落伍者とは、根本的に違うんだと贔屓する気持ちが強かった。
キャッシーとの関係は、不純異性交遊のレッテルを貼られそうな危うさはあったが、一方で並々ならぬ純粋さを感じていた。
「山野さん、ぼくたち、必ず道を見つけます。・・・・親や先生たちの説教にはうんざりしてますけど、彼らの言い分も理解できないわけではないんです」
大人びた言葉で心情を吐露するのも、正夫への信頼を示したかったからだろう。
「山野さん、これ、ぼくの電話番号です」
モーリーが、ナフキンに走り書きした数字を正夫に渡した。「・・・・すいません、山野さんの電話も教えていただけませんか」
「ああ、ぼくのところは大家さんの呼び出しなんだ。よほど急用だったらやむを得ないが、普段は遠慮してもらっているんだ」
モーリーが暮らす家庭環境では、「呼び出し電話」などなかなか理解できなかったのかもしれない。
怪訝そうに正夫を見た幼顔が、ことのほか印象に残った。
(つづく)
それと時代背景が絡み合って、これからどんな展開をみせるのか、興味を湧かせるような巧みな話作りと文章、期待してますよ。
ありがとうございました。