長崎県の大村湾に面した大村神社の境内には大きな楠木が茂っているが、あるとき危うく伐り倒されそうになったことがある。
この楠木を囲むように十本ほどの弟分の楠の木も生えていたのだが、明治三十七年ごろ樟脳を取ろうという話が持ち上がって、つぎつぎと伐られてしまったのだ。
いよいよ明日には一本だけ残った大楠木を伐るという前の晩、大村神社の神主の夢枕に一匹の老白狐が現れ「あの楠木を伐られると自分の棲家がなくなってしまう」と涙を流した。
神主は夜が明けるのを待ちかねて楠木の様子を調べてみた。
すると根元に二つの穴があって、折しも五匹の白狐がその穴から出ていくところだった。
声をかければよかったのだが、かはたれ時の薄明かりの中、とてもはっきりと意識を保っていられる状況ではなかった。
催眠術をかけられているような曖昧な心理状態のもと、神主は仄白く毛を光らせて蠢く五匹の狐の動向をぼんやりと見送ってしまったのだ。
ただ記憶の隅に、一匹だけ足の不自由な狐がいたのを覚えている。
その狐は足を引きずりながらも、ほかの四匹を引き連れるようにして明るみ始めた東の方向へ去っていった。
(もしや、おまえは夢枕に現れた老白狐・・・・)
今更気づいたというのも変な話が、神主がようやく事の成り行きを合点したころには完全に夜が明けていた。
大楠木の幹の陰から顔をのぞかせた朝日が、神主の瞼を射て否応なしに正気を取り戻させたのである。
神主は一部始終を思い返して、このまま放っておいては世間に申し訳が立たないと思った。
神に仕えるものが、足の悪い老白狐の棲家を奪うという阿漕な真似をしたとあっては何を言われるかわからない。
まして、老白狐には四匹の子供がいるのだ。
そこで村の有志に白狐の存在を伝え、どうしたものかと相談を持ちかけた。
楠木の処置については村人の衆議で決めたことだから、突然の話に伐るの伐らないのと村中が大騒ぎになった。
なかなか結論がでない中、神主は近くの林の中でさまよう白狐の親子を見つけ出し、大楠木の穴に住み着くに至った理由を問いただした。
すると老白狐は、思いがない話を神主の前で語りだした。
実はこの老白狐、昔は大村の富松という地に棲家があって、多数の子分を持つ一帯の親分であった。
名を白郎左衛門といって、旧藩時代には大村のために多大の功績を挙げてきたらしい。
その第一は、大村の殿様が隣国の大藩と争ってのっぴきならない戦になったとき、白郎左衛門は子分を呼び集め殿様の身辺を守るように手配した。
一方で手下の狐を間者として敵陣に送り込み、戦術のあれこれを探って大村軍に通報させたのであった。
戦の最中は、殿様の前後に見え隠れしながらお供して、敵が現れると恐ろしい天狗に化けて脅しつけ相手の戦意を喪失させた。
また、子分を薮の中に潜ませ、敵兵が一団になって攻め寄せてくると、行く手に火を放って立ち往生させた。
少ない手兵しか持たない大村軍であったが、狼狽する敵軍を巧妙に攻め立てて、五倍の兵力の隣国を打ち破ったのだった。
初めは何事が起こったのかと不審に思った殿様であったが、部下の侍に調べさせてみると白郎左衛門という白狐の働きであることがわかった。
大村の富松という地には白狐が住む森があって、湾近くまで村の共有林として広がっていることは知っていたが、なぜ白狐が急に大村軍の味方をしたのかは見当もつかなかった。
理由はともかく、その後も白狐の貢献は続いた。
大藩になって参勤交代を仰せつかったときも、武者に扮した先乗りの狐を出して沿道を見回り、自身は武者行列の一員として殿様に忠義を尽くした。
江戸入りしてからは白郎左衛門も屋敷内の築地の陰に住まいを設け、しばしば郷里との間を行き来していたのだが、先の戦の折に負傷した足の傷が悪化して次第に間遠になった。
時は過ぎ、若かった白狐もいつの間にか老いていった。
その間に、忠義を尽くした殿様も江戸屋敷で亡くなり、お世継ぎ争いが露見したため遂にはお取り潰しの沙汰を下された。
白郎左衛門の骨身を惜しまぬ働きを知って感謝もし便宜も図ってくれたお殿様がいなくなると、もはや江戸に留まる理由はなかった。
気づいてみると、白郎左衛門もすっかり老白狐の範疇に数えられる年齢になっていて、郷里の大村には何十年も帰っていなかったのである。
(富松の森はどうなっているだろうか)
逸る気持ちと不安とに急き立てられながら、白郎左衛門は足を引きずり四匹の子を連れて道中を急いだのだった。
ところが不運は重なるもので、大村にあったはずの実家がどうしても見つからない。
見つからないというより、長い無沙汰の間に富松の森そのものが消滅していたのである。
実のところ亡くなった殿様と直接言葉を交わしたことはなかったが、戦に参加した白狐たちはみな富松の森を手厚く保護してくれた温情に感謝して大村軍に加勢したのだった。
もちろん白郎左衛門の指揮あればこそだが、以心伝心殿様にもそのあたりの心情は伝わっていたと思っている。
ところが、明治の御代に変わって大村にも近代化の波が押し寄せ、村の共有林も年々縮小していった。
そのため、老白狐がかつて住んでいた棲家は、長い不在の間に幻のように消えていたのである。
子連れでもあった白郎左衛門は、やむなく大村神社の楠木を探し当て、中でも一番太い大楠木の穴に居を定めた。
この社が創建されたのは一体いつなのか、土地の古老の話ではかれこれ四百年も前からここにあったというから相当古い縁起を秘めているはずだ。
大楠木の樹齢が推定四百年と言われていたから、この地に大村神社ができたのとちょうど同じころだ。
出来立ての神社と楠の幼木が、互いに互いの成長を見守りつつ明治の御代まで生き延びてきたかと思うと、日頃世間に疎い神主も歴史の重みに思いを新たにするのだった。
もし、老白狐が夢枕に立たなかったら、世俗の欲に釣られて大楠木を伐り倒しているところだった。
神職の立場を忘れ、村人と一緒になって神木を売り渡す不埒な行為をしていたら、どのような神罰を与えられていたかしれない。
神主は深く反省し、同時に白郎左衛門親子の身の上を哀れに思い、大楠木は必ず残すからと約束して神社に連れ戻った。
「皆の衆、この大楠木は大村神社と一対のものだった。どちらが欠けても、この村を守ってきた神様は愛想をつかして立ち去ってしまうに違いない・・・・」
すでに多くの楠木を伐ってしまったが、せめて一本だけ残った大楠木を救けてはくれまいか。
樟脳は金になるかもしれないが、長い目で見れば村の衰退を招くような事をやってはいけないのだ。
それに、ここにお連れした白郎左衛門殿は長年大楠木の穴を棲家にしてこの村の平穏に貢献してきたのだ。
聞けば先の世に亡くなられた大村藩のお殿様も、この者たちのおかげで幾多の困難を切り抜けてきたらしい。
その功労者を棲家から追い出すような真似は、やはり村に衰運をもたらすに相違ない。
これまでの過ちは過ちとして、白郎左衛門一家に大楠木の棲家にお戻りいただき、末永くこの村の発展を守っていただこうと思うがどうだろうか。
いつになく毅然とした神主の態度に心を動かされた村人たちは、みな心からの賛意を示し誰ひとりとして異議を唱えるものはいなかった。
それだけではない、樟脳のために売り払った楠木の代金で、新たに稲荷神社を興そうということになった。
そこで大楠木を取り囲むように稲荷の社と鳥居を配置し、御神木の祠には以前と同様に白郎左衛門一家に住んでもらうことにした。
大村神社の境内に新しく創られた稲荷神社は一躍有名になり、白郎左衛門の存在と共に全国に知れ渡った。
白狐の身でありながら殿様に忠義を尽くしたエピソードは、多くの人に感動を与えた。
その過程で明らかになった忠義の理由が、当時の世相を反映して新聞紙上で新たな論争を引き起こした。
それは昔から大切に守られてきた自然環境が、明治四十年以降にわかに崩れ出した事と関係していた。
一例を挙げれば、欧米諸国でその博識ぶりを称えられ大英博物館の東洋関係資料の整理分類を任されていた南方熊楠が、帰国後に目にした森林荒廃の様子に激怒した件がある。
樹齢数百年にも及ぶ熊野一帯の杉が、国の奨励のもと積極的に伐採され高級用材として売り渡されたのである。
歩く百科事典とも呼ばれ、語学はもちろん医学から天文学まで当時の最高知識を身に付けていた熊楠は、粘菌の新種発見の可能性を破壊しかねない杉の伐採に激しく抗議した。
明治四十二年のことで、長崎の大村神社で大楠木が危うく伐り倒されそうになった五年後のことである。
南方熊楠は、元凶とも言える神社合祀推進への反対を唱え、現況のままの神社形態を維持することが自然を守る唯一の手段だと訴えた。
その主張を記した記事の写しを、当時内閣法制局の役人でもあった民俗学者の柳田國男に送り、神域に残る杉古木の消滅がいかに弊害を及ぼすものか各界の知識人に訴えた。
甲斐あって数年後には神社合祀の収束が決議され、日本におけるエコロジー思想が浸透するきっかけとなった。
老白狐の棲家を守った大村の殿様の考え方は、村の共有林や古来からの結(ゆい)の制度を温存しただけかもしれないが、広く解釈すれば人と動物の共存を適えたことになる。
富松の森を消滅させてしまった後の殿様や村人は、これまたやむを得ない事情があったにせよ先見の明があったとは言い難い。
大村神社の大楠木の顛末は、人間の欲望と自然保護のせめぎ合いが僅かながら意識され始めた萌芽期の出来事だったのかもしれない。
蛇足ながら付け加えると、諸国から多くの人がお参りに訪れるようになった稲荷の主・白郎左衛門は、しばらくの間厚い尊敬を受けて供物の類にも事欠かなかった。
人間の目からは恵まれた境遇に思われたが、老白狐は子狐ともどもある夜を境にぷっつりと姿を見せなくなった。
人の噂では、油揚を食いすぎて病気になり、どこか人目につかない場所で死んだのではないか・・・・と云われている。
いやいや旧藩時代から生きてきて、さすがに寿命が尽きたのではないか。
若い頃の戦場での負傷もあったし、お殿様の死や故郷の棲家の喪失という精神的な痛手もあって、気力体力の衰えが抗しがたいまでになっていたのではないか。
幾多の噂に彩られながら、その真相はついに明らかにならなかった。
人云うに、白郎左衛門殿は姿を隠して後ついに神様になられた。
稲荷の祠は空洞を広げたままだが、人々の祈りや願いを吸い込んでますます闇を濃くしていると伝えられている。
(おわり)
参考=日本伝説集(五十嵐力著)
老白狐の健気で哀れさが漂い
とてもうらざみしく描写されているところは
まるで語り部を聞いているかのように
じんわりと心にしみ渡りました
人間の自分勝手な行動が
どれだけ自然と動物を苦しめたかを
今一度思い返し反省をすれば
老白狐も喜んでくれるような気がします
素晴らしい短編小説を
どうもありがとうございました
おっしゃるとおり、人間が自分たちの勝手でどれほど動物や植物をないがしろにしてきたか、歴史の示すところではないでしょうか。
難しいことは別にして、生き物が互いに無関係では生きられないことを、みんなで感じていきたいと思います。
ワンちゃんによろしく。