その夜、隣人は帰ってこなかった。
何があったのだろうと考えて、おれの眠気も吹っ飛んでしまった。
明け方になって、とろとろと眠ったようだったが、なんとも不快な気分で目覚まし時計に起こされた。梅割り焼酎のげっぷが突き上げてきた。
二日酔いというほどではないが、胃の調子が悪いのは確かだ。湯で薄めた牛乳と共に、胃腸薬を飲んで家を出た。
しばらく顔を合わせていなかった紺野が、新たな事務所開設の挨拶を兼ねて、昼前にやってきた。
万世橋に格安の貸事務所を見つけたとのことで、紺野はご機嫌だった。もともとの神田一帯のお得意さんにも近いし、秋葉原の電機街から上野周辺までカバーできるということで、前途洋々の展望を語ってひとり悦にいっていた。
おれは、内心そんなに旨くいくかよと、紺野の見通しの甘さをあざ笑っていた。
いくら場所が好いといっても、実際に注文を取らなければ、何の意味もない。店を開き、看板を掲げただけで、客が向こうからやってくるわけではない。紺野が、いまと同じやり方で通用すると思い込んでいるようなのが、チャンチャラおかしかった。
彼は、今度の日曜日に、写植機を移動させたいという。
運送屋が入って、かなりの重量物を運び出すわけだから、普通の日にやられたら仕事をストップせざるを得ない。
紺野にも、そのあたりの配慮はできていた。
多々良は、紺野の要望に淡々と応じた。せっかくの休日ではあるが、立ち会いのために出勤する様子であった。一日も早く、けじめをつけたいというのが、多々良の本音であったろう。
「きみは、心配しなくていいよ」
おれの不安を察したように、多々良が言った。それでなくても飲み過ぎでゲンナリした顔をしていたから、まず真っ先に、おれの危惧を払拭してやろうと考えたに違いなかった。
紺野が帰ったあと、ひとしきり彼の商売感覚について噂をしあった。
悪口を言うおれに対して、多々良のほうは穏やかな笑みを浮かべて、肯定も否定もしなかった。
長年一緒にやってきて、紺野と苦労を分かち合った時期があるのかもしれなかった。あるいは、自分なりに勝算を示すライバルに対して、エールを送る余裕を持っているのかもしれない。
どちらにせよ、昨日今日知り合ったおれと違って、多々良と紺野の間には、目に見えない心の糸が絡んでいそうな気がして、おれの方が落ち着かない気持ちになっていた。
ミナコさんに出した手紙は、もう届いただろうか。
こころの底に沈めていた気がかりが、多々良と話をしているうちに浮かび上がってきた。
おれは、密かに検閲をする看守たちの表情を想像した。
ミナコさんは、未決拘置者という立場上、囚人よりは人権を守られているはずだと思いたかった。
だが、刑が確定した者の方が監視の目が緩やかで、未決拘置者あての通信物は、逆に、さまざまな詮索に曝されるのかもしれないとも考えた。
まさか、一人だけで検閲をすることはあるまい。
名称は分からないが、それを司る部署があって、何人かの目を経てあて先人に届くのだろう。
たとえば、おれは手紙のなかに「もう一度会いたい」と記した。「すべてを謝りたい」とも書いてある。
「こいつ、何を謝ると言うんだ・・。ほんとは、悪いのはこいつで、何か隠しているんじゃないのか」
検閲部署の上司が、急に三白眼を光らせる光景を想像した。
あるいは、部下と共に、手紙をかざしながら、薄ら笑いを漏らしてはいないか。
「おいおい、こいつ、ラブレターを書いてるつもりだぜ。スケがどこにいるのか、判ってないんじゃないか」
法律の下、この施設は厳格な規律によって運営されていると信じられている。その機関に対して、おれの頭の中には、疑念と妄想が渦巻いている。
これでは、おれの方が、よほど性質が悪いのではないか。
そう思いつつ、ついよからぬ場面が目に浮かんでしまうのだ。それもこれも、昨夜の梅割り焼酎が災いしているではないのかと、おれは、こめかみの辺りを指で押さえて昂りを鎮めた。
(ところで、隣家の騒動はどうなったろう?)
救急車で運ばれて行った、パチプロのオクサンのことが気にかかっていた。
クスリを呑み過ぎたといえば、おそらく睡眠薬のことだろう。
眠れなくて多めに服用した程度なら、ストレッチャーで運ばれる事態にはならないはずだ。
「目ェ覚ましょらんとよ」
男のプライドを保とうとしながら、却って途方に暮れていた旦那のことも、ずっと気になっていた。
ふたりの間は、どんな糸でつながっているのだろうか。
ヒモとオンナというのでは、しゃれにもならない。自殺を図るほどの危機が潜んでいたのだとすれば、あまり好い色の糸を想像することはできなかった。
その点、おれとミナコさんを結び付けているのは、紅い糸のはずだった。
白山神社の親神にまで認知を受けた、前世からの確かな糸である。途中でどんな困難があったとしても、誰も邪魔することはできないのだ。
再度、面会に行った日に、ミナコさんに確かな約束をしてもらおうと心に誓った。
隣家の女性は、一見愛想よくしていたが、ほんとうに心穏やかに過ごしていたのだろうか。ヒモの旦那に送り迎えされて、大切に扱われているように見えたが、そんなことで満足していたのだろうか。
おれは、しだいに疑い深くなっていった。写植を打ち始めてからも、目に映る熟語がみな悪意に満ちて見え始めた。
<誠実>という文字が、不誠実に見えてくる。<安心してお任せください>という宣伝文が、却って怪しく思えてしまう。この日の仕事は、何度も打ち直しをしたり、ぼんやりと手を止めたりして散々だった。
一応の区切りをつけて、六時に会社を出た。
昼飯をジュース一本に抑えていたせいか、空腹感がすごかった。
おれは、近所で、オムライスが評判の洋食屋に飛び込んだ。ここの親爺はいつもニコニコしていて、丸い笑顔の上のキッチン帽がよく似合っていた。
この日も、夕食には早い時間帯なのに、けっこう混みあっていた。最近、週刊誌で取り上げられて、界隈の勤め人に注目されていたせいもある。
親爺の笑顔に磨きがかかっていたと見たのは、おれの気のせいではなかった。
おれは、オムレツとライスと若布スープを注文した。ふわふわの玉子料理が食いたかったのだ。
オムライスだと、ケチャップをまぶした飯が好みに合わなかった。いろいろな具を入れて、味付けされているのが、体調にそぐわなかった。
注文どおり、ケチャップ抜きのオムレツが運ばれてきた。代わりに、醤油とタバスコで味付けをしようというのだ。スプーンを差し込むと、固まる前の玉子の層がとろとろと重なりあっていた。地球内部のマグマ層を観察するように、スプーンをさらに押し入れて、一部分を切り取った。
口の中に入れると、まだ熱の残るオムレツが、舌の上で小躍りした。
上顎や、前歯までが加わって、生命の源である鶏卵のエネルギーを味わった。
なんと精妙な芳香を含んでいるのだろう。鼻の奥までくすぐる匂いにうながされて、スープとライスに手をつけた。
この日のメニューとしては、おれが思いつく最高の選択ではなかったか。おれは大いに満足して、駅の方向へ戻って行った。
途中、どこへも立ち寄らずに、アパートに帰った。
昨夜、救急車がいたあたりに、見慣れないワゴン車が停まっていた。
玄関を入って、おれの部屋に近付くと、隣人の部屋から複数の人の気配が漏れてきた。
おれは、それとなく様子を窺いながら、部屋のカギをあけた。旧式の錠前だから、開錠するたびにカチャンと音がする。プライバシーなどという外来語が幅を利かせる世の中にあって、おおらかな思潮を持ったカギの存在が、おれの脳波にぴったりの波長を送ってよこした。
自分の部屋ほど落ち着く場所はない。
お湯を沸かし、緑茶を淹れて、大ぶりの湯飲みでたっぷりと飲む。どこにでもある魚ネタの分厚い代物である。鰯、鰤、鰹、鮪などと身近なところから覚えていって、いまでは、ただの模様が並んでいるようにしか見えないヤツだ。
ゆっくりと湯飲みを傾けて、内側の茶渋が鼻先に迫ったとき、おれのプライバシーを無視して、入口のドアが勢いよくノックされた。
「はい・・」あわてて反応したのは、隣室の人の気配と無関係ではないと直感したからだ。
ドアを開けると、目つきの鋭い中年男が、胸から取り出した黒革の手帳を、おれの目の前に提示した。
「夜分、恐れ入りますが、お宅様は、隣の方とお知り合いでしょうか」
「はあ、それは、なにせお隣同士ですから・・」
おれは、またも事件がらみの捜査に巻き込まれそうな気配を感じて、胸が高鳴った。
(続く)
何があったのだろうと考えて、おれの眠気も吹っ飛んでしまった。
明け方になって、とろとろと眠ったようだったが、なんとも不快な気分で目覚まし時計に起こされた。梅割り焼酎のげっぷが突き上げてきた。
二日酔いというほどではないが、胃の調子が悪いのは確かだ。湯で薄めた牛乳と共に、胃腸薬を飲んで家を出た。
しばらく顔を合わせていなかった紺野が、新たな事務所開設の挨拶を兼ねて、昼前にやってきた。
万世橋に格安の貸事務所を見つけたとのことで、紺野はご機嫌だった。もともとの神田一帯のお得意さんにも近いし、秋葉原の電機街から上野周辺までカバーできるということで、前途洋々の展望を語ってひとり悦にいっていた。
おれは、内心そんなに旨くいくかよと、紺野の見通しの甘さをあざ笑っていた。
いくら場所が好いといっても、実際に注文を取らなければ、何の意味もない。店を開き、看板を掲げただけで、客が向こうからやってくるわけではない。紺野が、いまと同じやり方で通用すると思い込んでいるようなのが、チャンチャラおかしかった。
彼は、今度の日曜日に、写植機を移動させたいという。
運送屋が入って、かなりの重量物を運び出すわけだから、普通の日にやられたら仕事をストップせざるを得ない。
紺野にも、そのあたりの配慮はできていた。
多々良は、紺野の要望に淡々と応じた。せっかくの休日ではあるが、立ち会いのために出勤する様子であった。一日も早く、けじめをつけたいというのが、多々良の本音であったろう。
「きみは、心配しなくていいよ」
おれの不安を察したように、多々良が言った。それでなくても飲み過ぎでゲンナリした顔をしていたから、まず真っ先に、おれの危惧を払拭してやろうと考えたに違いなかった。
紺野が帰ったあと、ひとしきり彼の商売感覚について噂をしあった。
悪口を言うおれに対して、多々良のほうは穏やかな笑みを浮かべて、肯定も否定もしなかった。
長年一緒にやってきて、紺野と苦労を分かち合った時期があるのかもしれなかった。あるいは、自分なりに勝算を示すライバルに対して、エールを送る余裕を持っているのかもしれない。
どちらにせよ、昨日今日知り合ったおれと違って、多々良と紺野の間には、目に見えない心の糸が絡んでいそうな気がして、おれの方が落ち着かない気持ちになっていた。
ミナコさんに出した手紙は、もう届いただろうか。
こころの底に沈めていた気がかりが、多々良と話をしているうちに浮かび上がってきた。
おれは、密かに検閲をする看守たちの表情を想像した。
ミナコさんは、未決拘置者という立場上、囚人よりは人権を守られているはずだと思いたかった。
だが、刑が確定した者の方が監視の目が緩やかで、未決拘置者あての通信物は、逆に、さまざまな詮索に曝されるのかもしれないとも考えた。
まさか、一人だけで検閲をすることはあるまい。
名称は分からないが、それを司る部署があって、何人かの目を経てあて先人に届くのだろう。
たとえば、おれは手紙のなかに「もう一度会いたい」と記した。「すべてを謝りたい」とも書いてある。
「こいつ、何を謝ると言うんだ・・。ほんとは、悪いのはこいつで、何か隠しているんじゃないのか」
検閲部署の上司が、急に三白眼を光らせる光景を想像した。
あるいは、部下と共に、手紙をかざしながら、薄ら笑いを漏らしてはいないか。
「おいおい、こいつ、ラブレターを書いてるつもりだぜ。スケがどこにいるのか、判ってないんじゃないか」
法律の下、この施設は厳格な規律によって運営されていると信じられている。その機関に対して、おれの頭の中には、疑念と妄想が渦巻いている。
これでは、おれの方が、よほど性質が悪いのではないか。
そう思いつつ、ついよからぬ場面が目に浮かんでしまうのだ。それもこれも、昨夜の梅割り焼酎が災いしているではないのかと、おれは、こめかみの辺りを指で押さえて昂りを鎮めた。
(ところで、隣家の騒動はどうなったろう?)
救急車で運ばれて行った、パチプロのオクサンのことが気にかかっていた。
クスリを呑み過ぎたといえば、おそらく睡眠薬のことだろう。
眠れなくて多めに服用した程度なら、ストレッチャーで運ばれる事態にはならないはずだ。
「目ェ覚ましょらんとよ」
男のプライドを保とうとしながら、却って途方に暮れていた旦那のことも、ずっと気になっていた。
ふたりの間は、どんな糸でつながっているのだろうか。
ヒモとオンナというのでは、しゃれにもならない。自殺を図るほどの危機が潜んでいたのだとすれば、あまり好い色の糸を想像することはできなかった。
その点、おれとミナコさんを結び付けているのは、紅い糸のはずだった。
白山神社の親神にまで認知を受けた、前世からの確かな糸である。途中でどんな困難があったとしても、誰も邪魔することはできないのだ。
再度、面会に行った日に、ミナコさんに確かな約束をしてもらおうと心に誓った。
隣家の女性は、一見愛想よくしていたが、ほんとうに心穏やかに過ごしていたのだろうか。ヒモの旦那に送り迎えされて、大切に扱われているように見えたが、そんなことで満足していたのだろうか。
おれは、しだいに疑い深くなっていった。写植を打ち始めてからも、目に映る熟語がみな悪意に満ちて見え始めた。
<誠実>という文字が、不誠実に見えてくる。<安心してお任せください>という宣伝文が、却って怪しく思えてしまう。この日の仕事は、何度も打ち直しをしたり、ぼんやりと手を止めたりして散々だった。
一応の区切りをつけて、六時に会社を出た。
昼飯をジュース一本に抑えていたせいか、空腹感がすごかった。
おれは、近所で、オムライスが評判の洋食屋に飛び込んだ。ここの親爺はいつもニコニコしていて、丸い笑顔の上のキッチン帽がよく似合っていた。
この日も、夕食には早い時間帯なのに、けっこう混みあっていた。最近、週刊誌で取り上げられて、界隈の勤め人に注目されていたせいもある。
親爺の笑顔に磨きがかかっていたと見たのは、おれの気のせいではなかった。
おれは、オムレツとライスと若布スープを注文した。ふわふわの玉子料理が食いたかったのだ。
オムライスだと、ケチャップをまぶした飯が好みに合わなかった。いろいろな具を入れて、味付けされているのが、体調にそぐわなかった。
注文どおり、ケチャップ抜きのオムレツが運ばれてきた。代わりに、醤油とタバスコで味付けをしようというのだ。スプーンを差し込むと、固まる前の玉子の層がとろとろと重なりあっていた。地球内部のマグマ層を観察するように、スプーンをさらに押し入れて、一部分を切り取った。
口の中に入れると、まだ熱の残るオムレツが、舌の上で小躍りした。
上顎や、前歯までが加わって、生命の源である鶏卵のエネルギーを味わった。
なんと精妙な芳香を含んでいるのだろう。鼻の奥までくすぐる匂いにうながされて、スープとライスに手をつけた。
この日のメニューとしては、おれが思いつく最高の選択ではなかったか。おれは大いに満足して、駅の方向へ戻って行った。
途中、どこへも立ち寄らずに、アパートに帰った。
昨夜、救急車がいたあたりに、見慣れないワゴン車が停まっていた。
玄関を入って、おれの部屋に近付くと、隣人の部屋から複数の人の気配が漏れてきた。
おれは、それとなく様子を窺いながら、部屋のカギをあけた。旧式の錠前だから、開錠するたびにカチャンと音がする。プライバシーなどという外来語が幅を利かせる世の中にあって、おおらかな思潮を持ったカギの存在が、おれの脳波にぴったりの波長を送ってよこした。
自分の部屋ほど落ち着く場所はない。
お湯を沸かし、緑茶を淹れて、大ぶりの湯飲みでたっぷりと飲む。どこにでもある魚ネタの分厚い代物である。鰯、鰤、鰹、鮪などと身近なところから覚えていって、いまでは、ただの模様が並んでいるようにしか見えないヤツだ。
ゆっくりと湯飲みを傾けて、内側の茶渋が鼻先に迫ったとき、おれのプライバシーを無視して、入口のドアが勢いよくノックされた。
「はい・・」あわてて反応したのは、隣室の人の気配と無関係ではないと直感したからだ。
ドアを開けると、目つきの鋭い中年男が、胸から取り出した黒革の手帳を、おれの目の前に提示した。
「夜分、恐れ入りますが、お宅様は、隣の方とお知り合いでしょうか」
「はあ、それは、なにせお隣同士ですから・・」
おれは、またも事件がらみの捜査に巻き込まれそうな気配を感じて、胸が高鳴った。
(続く)
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