唐松の林をぬって山荘への道をたどっていくと、前方に犬を散歩させる人影が見えた。
ゆっくりとしたスピードであっても、真木男の運転するクルマはたちまち散歩の男に近付いていた。
「ああ、リュウだ・・・・」
真木男は、ウインドウを降ろして声をかけようとした。
瞬間、散歩の男がこちらを振り向いた。赤ら顔がてらてらと光っている。薄く笑っているような表情を見せていたが、眼窩の奥で目が凍っていた。
嫌な予感がした。
真木男はあわてて頭を下げ、そのまま男の横をすり抜けた。道端に身を寄せる男と犬の姿が、バックミラーに映った。
(あの、黒いものは?)
小さくなる映像を凝視しながら、男が隠すようにしていた犬の片足が意識の底に残った。
「リュウは怪我でもしたのかな」
真木男は、犬の前足を鈎状に結わえた黒い布にこだわった。「・・・・おまえ、どう思う」
助手席の妻に意見を求めた。
「なんだか変ねえ。あの犬、力が強いから、散歩させるとき引きずられないように矯正しているんじゃないかしら」
確かにリュウは、真木男のクルマを振り返ろうとして、よろけたように見えた。
真木男が初めてその犬と出合ったのは、雪が消えて間もない早春の朝だった。暖炉の薪を取りに行こうとして玄関の低い階段を降りたとき、ハアハアと荒い息を吐いて、白い犬が現れたのだ。
まだあどけない顔をした幼犬だが、逞しい骨格からみて、いずれ大型犬になるのは目に見えていた。
「おお、樺太犬みたいだな」
真木男は中腰になって、品定めした。
南極で生き延びたタロウ、ジロウとは体毛の色が異なるが、生気に溢れた身体の動きから、やがて橇を曳くことも可能な犬種に違いないと結論付けた。
「おいで!」
真木男が両手を広げると、犬はまっしぐらに飛び込んできた。顔を舐めようとするのを避けたとたんに、思わず腰砕けになるほどの勢いだった。
リュウ、リュウ。
どこかで犬の名を呼ぶ声がした。
人気の少ない林間の私道だから、飼い主はリードを外して運動させていたのだろう。犬の後を追ってきて、やっと発見した場所が、真木男の腕の中だったというわけである。
「よしなさい」
リュウは、すばやくリードを着けられた。
それでも伸び上がり、真木男の腕に前肢をかけようとして、再び制止された。「・・・・すみません。服を汚してしまって」
言うとおり、リュウの全身は草むらをもぐってきて湿気を帯び、足裏には山野の泥が付着している。じゃれつかれた真木男のジャージには、それらの汚れがこすり付けられていた。
「いや、いいんですよ。どうせ、洗濯するつもりだったんですから」
「リュウ、来い!」
真木男の対応にもかかわらず、飼い主は幼い犬を引き立てた。こうした事態になってしまったことが不本意だったと、内心怒っているようにも見えた。
綱で強く引かれながら、リュウは四肢でしっかりと大地に立っていた。
「バイバイ、またね・・・・」
何かを期待していた犬が、真木男の言葉で踏ん切りをつけたようだ。リュウと呼ばれた犬は、今度こそ飼い主に曳かれて家のある方角へ戻っていった。
本格的な春が来て、あっという間に夏の訪れがみられる。植物は、花の時期を変えながら、高原の賑わいを演出していた。
気温が上がるにしたがって、山荘の持ち主が姿を現すようになる。真木男も足繁く通うひとりで、そうした経緯の中でリュウと二度目の遭遇をした。
犬がクルマのエンジン音で、持ち主を識別できるものだろうか。
午後の日が傾き始めたころ、長時間のドライブの末に、真木男がやっと山荘に辿り着こうとしていたとき、左折寸前のバックミラーにいきなり白い犬の姿が映ったのである。犬は疾駆して、たちまち真木男のクルマに追いついた。
「あらら、リュウちゃんだ」
妻の歓声で、犬がクルマの左前方にいることがわかった。そのまま左折すると、巻き込んでしまう恐れがある。
真木男は、運転席側の窓を開けてリュウを呼んだ。
回ってきた犬は、三ヶ月ほどの間にひとまわり大きくなっていた。真木男はリュウに声をかけながら、左手でハンドルを切った。
山荘の前にクルマを着けて、乗ったままリュウが離れるのを待った。前回のことがあって、あまり親密にはできない心境になっていた。
たぶん、飼い主は近くまで来ているだろう。
リュウとじゃれあったりしていると、飼い主を出し抜いて拉致したように思われるかもしれない。
「リュウちゃんの家まで、連れて行ったら?」
妻の提案にしたがって、そのままクルマを犬の飼い主宅まで移動させた。
リュウは、ひたすら付いてきた。よほど遊びたいのだろう。幼い顔で、真木男たちが降りるのを待っている。
「ほら、リュウちゃんのお家よ」
妻が手で誘導したが、一向に離れる気配をみせなかった。
(続く)
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今度の窪庭ワールドではどんな人たちを見せていただけるのか、楽しみに読ませていただきます。