クルマに乗ったまましばらく待っていると、飼い主が現れた。この日は、カーキ色のシャツとズボンを身につけている。
この森一帯には、二百戸近い別荘が点在し、中には冬季も滞在する永住者もいる。この飼い主も永住者の一人だが、いくら涼しい場所とはいえ、夏を迎えるにしては重々しい印象の服装に思えた。
「いやあ、すみません」
真木男は、先手を打って謝った。やはり初対面のときの経緯から、リュウが叱られるのを避けたい思いがあった。
同時に、自分がリュウと戯れたわけではないことも、アピールしなければならない。
「うちのクルマに付いて来ちゃって、ほんとに人懐っこいワンちゃんですね。・・・・でも、どうしていいか分からないから、お宅までお届けしちゃいました」
赤ら顔の男は、真木男と目を合わすことなく曖昧にうなずいた。
この日もリュウは、たちまちリードを付けられた。名残惜しそうに振り向く犬を後に、真木男はクルマを発進させた。
大きな四角を描くようにして、自分の山荘に戻った。二度目の遭遇は、そうして終わった。
リュウの家とは、直線距離にして百メートルほどしか離れていない。冬になって枯葉が落ちると、樹間を通して灯りが見える程度のお隣さんである。夏は繁茂する雑木の葉で遮られているから、その気で訪れなければリュウと会う機会はなかった。
その後、散歩コースが変わったのか、真木男たちが山荘にいる間、リュウの姿を見かけることがなかった。
ときおり遠吠えが聞こえてきて、「元気らしい」「寂しいのかしら」と噂をしあうことはあったが、わざわざリュウを見舞うのは控えていた。
リュウの飼い主が何をする人かは、まったく分からなかった。
ただ、朝早く自動車で出勤して行くらしい気配は、ドアを閉める音とタイヤの砂利を噛む音で推量できた。
飼い主が出勤してしまうと、リュウは夜まで放置される。餌や水は充分に与えられているのであろうが、遊び盛りのうえ、それでなくても活動的な犬種のリュウが、終日トタン張りの小屋に閉じ込められているのは、胸の痛む状況であった。
特に、夏休みになって子供たちが別荘を訪れるようになると、リュウの忍耐は限界に達した。
歓声を上げて石蹴りを繰り返し、ときには捕虫網を持って家の前を通って行く無邪気な存在に、縋るような声を送るのも無理のないことであった。
飼い主がいる間は、声もあげない。だが、自動車のエンジン音が聞こえなくなると、狼にも似た遠吠えを森中に響かせる。
「ぼくも遊びたいよう・・・・」と訴えているかのようで、真木男は切ない気持ちにおそわれる。駆けつけて慰めてやりたいが、連れ出すことができない以上、かえって事態を悪化させるだけのことである。
そうした日々が幾日か続いたあと、真木男はリュウが一大決心をする場面を目撃した。飼い主の強制に抗して、脱走を試みたのである。
異変に気付いたのは、ドカン、ドカンと朝の空気を震わす物音からであった。
「リュウちゃんが、暴れてるんじゃないの」
妻の説明を待つまでもなく、リュウのストレスが爆発したことは明らかだった。真木男は、あわてて走り出した。そのまま抛っておいたら何かよからぬことが起こりそうな気がしたのである。
駆けつけると、リュウは周囲の木組みに前肢をかけて、トタン屋根に体当たりしていた。頭と頑丈な肩を使って、屋根を跳ね上げ、捲り取ろうとする。少しずつ隙間を広げたトタン板の接合部が、釘穴の部分から破れ、犬の鼻先が覗けるまでになっていた。
「リュウ、よしなさい!」
真木男は、大声でリュウを制した。自分でも信じられない厳しい口調だった。
リュウの意思を尊重するなら、見て見ぬ振りをするのが一番好い。だが、ひとたび山野に放たれたら、野犬と同じ扱いをされる。首輪だけでは、何の保証にもならない。いままでは、リードを外した散歩が許されていたが、それとて飼い主が付き添っていたればこそである。
まして現在は、子供たちが無防備に遊んでいる。
万が一リュウが小屋を脱出したら、遊びの仲間に加わろうとするだろう。真木男にじゃれついた時と同じように、伸び上がり、顔を舐めようとしたら、まるで襲い掛かったのと同様の結果を引き起こすことになる。
真木男は、最悪の展開を恐れて、われ知らず犬を叱り付けたのだった。
気が付くと、飼い主の家の敷地に入り込んでいた。日頃侵すことのなかった境界線を、いつの間にか越えていた。
これほど真剣にものごとを受け止めたのは、近頃にないことだった。
真木男は、リュウを叱ったあとも声を落として説得した。このまま脱走したら、いっとき自由を得たと思っても、後には深い悲しみが待っている。
人間の世界だって、上司に反抗してリストラの対象にされる者もいる。癇癪を起こすと、ろくなことにならないのだ、と。
「リュウちゃん、我慢、がまん・・・・」
真木男は、かつて妻に諭されたことを思い出しながら、目前の犬に話し続けていた。
(続く)
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