『猫の耳の秋風』(内田百)
「クルや。クルや。猫や。お前か。猫か。猫だね。猫だらう。間違ひないね。猫ではないか。違ふか。狸か。むじなか。まみか。あなぐまか。そんな顔して、何を考へてる。これこれ、お膳の上を見るんじゃないよ。(略)・・・・そもそもお前はたしなみが足りない様だ。(略)・・・・お前はお行儀が悪い。ノラはそんな事をしなかった。第一、お膳のそばへは来なかった。」
この小説に出会ったとき、わたしは胸が震えるような喜びを味わった。
それまで主人公のそばにいたノラが失踪して、代わりに現れた猫にクルツという名をつけてしゃべりかける情景なのだが、このたたみかけるような息遣いは、酔っ払いの独り言にみえて、実に豊かな伝達力を秘めていることに驚かされたのである。
言葉が、意味とヒビキから成り立っていることを、ある詩人の著書から学んでいたが、この作家のえもいわれぬ魅力は、作中で駆使することばのヒビキに拠るのだろうと、自分なりに得心したのであった。
ノラの失踪があって、一方に奥さんの入院という事実がある。猫が帰って来るおまじないを続けていたのに、五百三十五回で打ち切る事情が生じたわけだ。
そんな事を、クルツはみんな知っているのか。主人公には丸でわからないが、お膳のそばに坐り、人の顔を見ているクルツに話しかけていると、ノラのことを思い出して目の裏が熱くなる。
「ねえクルや、困るねえ。よさうねえ。そうら、あんなに雨が降ってゐる。段段ひどくなって来た。雨が降るのも困るねえ。音がするからいけない。クルや、お前か」
いろいろな文学者の、さまざまな作品に感心するのだが、わたしは、いつも内田百に戻ってきてしまうのである。
(おわり)
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