(双頭の蛇)
師走も押し詰まった頃、調査を依頼しておいた滝口から耳寄りな報告があった。
<年明けに、村上紀久子と電力界の黒幕が金沢の主計町で会う>という情報だった。
経済団体の賀詞交歓会は、例年通り13日頃に行われるらしいが、老人が大手町へ行くことはなく、もっぱら裏街道が似合っていると承知している。
陽のあたる場所より、芸者の寮を改装した村上紀久子の住まいに客人を呼んだほうがよほど実質的だ。
そのために、前以て資金を渡し隠れ家を買わせておいたのだ。
この女、老人が原子力ムラで力を蓄えていった時代に、山陰のある温泉旅館に呼んだ田舎芸者に過ぎなかったが、巧まずに人の心に入り込む才に恵まれていた。
たぶらかすとか、くすぐるとかいう類のわざとらしい技ではない。
むしろ他人に尽くすひたむきさのような心に、相手は知らず知らず引き込まれていくのだ。
老獪な老人は、そうした彼女の資質を利用して原発設置地区の代表者らとの酒席に同行させ、彼らの本音を聞き出させたりしていた。
一方、重宝に動いてくれた懐刀の堂島は、ドジを踏んで窮地に陥っている。
さすがに本人止まりで事件の始末をつけようとしているようだが、どこまでまでを結界と心得ているのか明らかではない。
しかし、老人は楽観していた。
自分の所まで迫って来るものは、誰もいない。
老人が表舞台から身を引く前に起こった役員秘書殺人事件も、今では霧の彼方に消え去ったままだ。
あの時は堂島がうまくことを運んだが、ちょっとした気の緩みが今回の失敗となって顕われたようだ。
(ただ、それだけのことだ)
新年を迎えたら、何もかもが新しくなる・・・・。
揺るぎない自信なのか、胆力なのか、残された役割をやり遂げる気力は、少しも衰えていない様子だという。
老人には、原発事故で崩れかけた組織を陰で支え、一族の繁栄を確実にする使命がある。
滝口からの報告を聞いていると、正孝には巨魁の胸の内が手に取るように見えてきた。
蛇は冬眠中と見せかけて、あらゆる方面に情報の網を張り巡らそうと画策しているに違いなかった。
薫風社の解散に見通しがついた12月はじめ、正孝は出雲市を訪れ刑事課の山根に福田艶子変死事件の顛末を聞いていた。
「睡眠導入剤は福田艶子自身の手で用意されたものだ」
堂島秀俊は取り調べに対して、そう答えたそうだ。
容疑者の身柄を送致した後ということもあって、山根は表情を緩めながら正孝の問いに答えてくれた。
福田艶子は、ここ数年恋人関係にあった堂島の怪しい提案を聞いて疑心暗鬼になり、睡眠と精神の安定を図るための処方を医師に依頼したのだという。
すべて同じ種類の睡眠剤で、不安な気持ちから飲み残しを溜め込んでいったのではないかと説明した。
事実、その供述は医師のカルテからも裏付けが取れた。
とはいえ、タブレットに付いた指紋の件は、当初頑強に否定していた。
しかし、弥山近くの駐車場に停めたクルマの中から堂島と福田艶子が出て行く画像があり、そこを追及されて主張を崩された。
「たしかに飲ませましたよ。一緒に死のうということで・・・・」
堂島のずる賢い言い訳を思い出したのか、山根は顔をしかめて見せた。
注射器については、ネット通販で入手した記録が堂島のパソコンに残っていた。
インスリン注射用のものは、あらかじめ注射筒に薬液が充填されていて、絶対に逆戻りしないように作られているから、それで空気を送り込むことなどできない。
その点、堂島が購入した実験用のものは、薬液その他を吸い上げて注入するタイプの製品だったという。
当然、静脈に空気注射をすることも可能である。
インスリン注射用の極細針なら見落とす可能性があるが、市販の雑な針だったからこそ発見できたのだと山根は言った。
こうした事実を突きつけると、城島はしぶしぶ供述調書にサインした。
堂島は拘留期限いっぱい取り調べを受け、殺人容疑で送検された。
殺人は認めたものの、その動機はあくまでも痴情のもつれとしか供述していないという。
(それはそうだろう)と、正孝は堂島の立場を慮る。
役員こそ降りたが、電力業界を陰で操ってきた老人は、堂島と村上紀久子を動かして艶子をコントロールしようと説得したが断られた。
そうした策略は、絶対に悟られてはならないものだ。
老人は堂島に対して、暗黙のうちに艶子の排除を示唆した。
だから堂島は、福田艶子の殺害に至った動機を痴情にすり替えるしかなかった。
そして殺人容疑に対しても、あまり抵抗することなく認めたのだろうというのが、正孝の見立てであった。
正月を迎える主計町で、村上紀久子と老人が何かを画策するとの情報を得て、正孝は動き出した。
時期が時期だけに、うまく宿が取れるか心配したが、主計町緑水苑近くにある木津屋旅館に予約を入れることができた。
主計町の茶屋街は、ひがし茶屋街と比べると正月でも人出が少ないらしい。
「それは助かる。・・・・連泊したいんだが、お願いできますか」
「はい、それは・・・・。ただ、三が日は特別料金になりますが、よろしいですか」
値段を確かめると、思ったほど高くはない。
(兼六園近くの高級ホテルと比べるのも変な話だが・・・・)
正孝は利便第一に考え、とりあえず大晦日から5日までの宿泊を申し出た。
一週間近い連泊に受付は戸惑ったような反応を見せたが、料金を先に振り込むことで了解を得た。
当日、正孝の姿は金沢駅頭にあった。
改札口を出てタクシー乗り場に向かうと、一年の締めくくりの日とあって旅行客も街歩きの市民も、こころなしか浮き立っているように見えた。
人々の心は皆それぞれの関心事に向かっていて、他のことなど目に入らなくても不思議はない。
正孝も同様で、背水の陣を敷いてきた覚悟が身を引き締めていた。
タクシードライバーに「木津屋旅館」と告げ、いよいよ金沢に来たという実感が湧いた。
暖簾のかかった茶屋風の入口は、その古風さが逆に新しい雰囲気を醸し出していた。
「予約しておいた伊能です」
マント姿の正孝が会釈すると、宿の女中は痩躯の老人をまじまじと凝視し、泉鏡花の世界が蘇ったかのような驚きを見せた。
「まあ、またロケでも始まるのかと思いましたわ」
そう言われても、どんな映画が撮られたのか理解の行かない正孝は、「やはり、金沢は冷えますな」と見当違いの挨拶をして厚底の草履を脱いだ。
「あっ、この杖はお預かり致しましょうか」
上がり框で女中に声をかけられたが、「いや、親の形見なのでいつも身近に置いているのですよ」と、やんわり断った。
部屋に案内され、真っ先にテレビが目に入ったが、「紅白歌合戦」のことすら頭の中に浮かばなかった。
素泊まりが原則の宿とはいえ、料理の用意されない宿泊はやはり物悲しく感じられた。
それでも、駅ナカの蕎麦屋で年越しそばだけは胃に収めてきた。
正孝は一世一代の和装を解き、宿の部屋着に着替えた。
何はさておき、まずは冷え切った身体を風呂でほぐしたかった。
部屋に戻り、障子を開けて外に目をやると、薄明かりを受けて浅野川がゆったりと流れていた。
暮れ残った中の橋が、古都の感興をことさら掻き立てる。
かすかな暖房の温みが、羽根布団をつつむように流れてくる。
三番町を発つ時から思い描いてきたシーンが、閉じた瞼の裏に張り付いていたが、正孝はいつの間にか主計町の眠りに誘い込まれていた。
夜半に目覚めて手洗いに立つと、隣家の屋根が白くなっていた。
(ほう、雪か。・・・・妙に似合っているじゃないか)
女中が何を連想したのかは分からないが、正孝の脳裏にもロケを思わせるような映像が浮かんでいた。
桜田門外の変、ニ二六事件、古風な情操の中で染み付いた肌触りに似たものが、雪に触発されて思い描かれるのだ。
(艶子の恨みは、わしが晴らす)
今どき笑止千万と言われるのを覚悟で、思いつめてきた計画なのだ。
明日からは、滝口から伝えられた情報を確かめる作業に入る。
逸る気持ちは、すでに消えている。
正孝は一度立ち会ったことのある影笛に艶子を重ね、蚊帳を透ける薄衣のシルエットを熱い思いで蘇らせるのだった。
元旦に降った雪は、浅野川沿いの築堤や茶屋街の屋根をうっすらと覆っていた。
表通りの通路は、朝早くから起きだした男衆の雪掻きの音で束の間にぎわった。
正孝は、そうした風景を窓から見下ろしながら、おおかたはまだ眠りの中にある街並みを散策することにした。
今朝方の様子では、雪駄でも借りなくては外に出られないのではと危惧したが、さすがに客に不自由はさせない気遣いが感じられる。
「もう、たいがいの場所は散歩できますよ」
正孝の場合、朝食の摂れる店を探しながら、場合によっては菓子パンと牛乳を持ち帰れば、それでもいいのだ。
要は村上紀久子が潜む家のあたりを窺い、いつあの巨魁が現れるかを偵察すればいいのだ。
正孝の読みでは、電力業界のボスが姿を見せるのは正月三が日の内だ。
今日かも知れないし、明日かも知れない。
去年買わせて改装した隠れ家には、長年の夢が詰め込まれているのだろう。
いくら権力の権化といえども、男はおとこだ。
一流会社の社長室にも、あるいは会長室にも存在しなかった熱中と満足が、そこにはあるはずだ。
そして、もう一つ付け加えるとすれば、瓦解への憧れだ。
あの男の心中にもそんなものが潜在するかどうかしらないが、少なくとも自分の中にはある。
夢は流動している。夢の正体は掴みきれない。
そこが、伊能正孝の狙い目といえた。
一月ニ日の夕刻、ついに正孝は元の芸者寮に入る村上紀久子とバーバリのコートを着た老人を発見した。
(そうか、滝口の報告どおりか)
最後まで見届けると、武者震いに襲われた。
「いよいよだ、いよいよだよ、艶子・・・・」
いったん隠れ家に入ったら、そう易易と移動するはずはない。
新年のご機嫌伺いにムラの衆が現れるとしても、せいぜい明日の昼近くなってのことだろう。
しかも、一人ひとり隠れるようにして姿を見せるはずだ。
そんな奴らには、なんの興味もない。
正孝は、確信を持って宿に引き返した。
翌日、正孝は午前9時に杖をついて石段を登りつめ、村上紀久子宅を訪問した。
「おはようございます。・・・・昨年お世話になりました工務店の社長です。新年のご挨拶に参りました」
軽いノックに釣られて、村上紀久子が顔をのぞかせた。
「いやあ、ご挨拶が遅れて本当に申し訳ございません。弟子任せで粗相でもなかったかと、点検がてらお礼に伺った次第です」
一瞬、狐につまれたような表情だったが、正孝の見るからに高価な着物地と時代を超えたマント姿に驚いて、混乱したようだった。
しかも、手元には紫の袱紗で包んだ祝儀袋のようなものを携えている。
紀久子は、思わずリビングのソファーに正孝を招き入れた。
「ああ、出来れば旦那さんにもご挨拶したいのですが、ご在宅でしょうか」
「はい、ただいま呼んでまいりますので、少々お待ちください」
村上紀久子は、なんの疑いも持たずにドアの向こうに消えた。
その間に、正孝は入口に立て掛けておいた杖をソファーの陰に隠した。
「何だ、こんな朝早くに・・・・。工務店だって? わざわざ様子を見に来たのか」
声に濁りはなかったが、ぴんと張った音調が却って不遜さを際立たせていた。
「へっ、お騒がせしてスミマセンです。これは気持ちばかりですが・・・・」と、袱紗を解いて熨斗袋を取り出した。
「先生、どうぞお確かめください」
テーブルを挟んで奥に座った老人の前に差し出した。
袋の中には、正孝が推測した福田艶子変死事件の顛末が、堂島秀俊の告白の形でしたためられていた。
その文書を目で追っているうちに、老人の表情が強張っていった。
「誰だ、君は?」
老人が睨もうとした時には、ソファーの裏に隠しておいた杖を掴んだ正孝が、二人の背後に回りこもうとしていた。
正孝は、村上紀久子の面前で、仕込みの剣を抜き放った。
杖の部分が、ガタンと音を立てて投げ捨てられた。
紀久子のヒッという声が、喉元から絞り出された。
「村上さん、福田艶子という女性をご存じですよねえ。彼女は実家に帰っていた時期に弥山で殺されました。実のお父様と再会して喜んだ矢先のことです」
正孝の問い掛けに、背後を振り返る気力さえ失せていた。
「前後のことは、調べがついています。あとで、警察に話していただけますかね? それともやはり死んでもらいますか」
村上紀久子は、放心したように身体を硬直させていた。その首を正孝は躊躇なく掻き切った。
「先生は、堂島に幾つか指示を出していますよね。いえ、否定されてもよろしいんですよ。福田艶子さんが殺害される前に関わった未公開株詐欺もご存知でしょう?」
風力発電事業を舞台にした悪行をも、旧悪と並行して追及するつもりだった。
「・・・・でも、先生ほどの方は、まっとうな方法では白状されないですよね。だから私も考えました」
そう言って、伊能正孝は老人のクビに腕をまわした。
(なんだ、こいつはただの老いぼれじゃないか・・・・)
右手に持った仕込みの剣を顎の下から左首の頚動脈にあてがった。
ここで躊躇すれば、あらゆる権力を総動員して生き残りを図るだろう。
巨魁の心胆を寒からしめた堂島の手記も、所詮正孝が作ったニセモノである。
正孝の思いがいくら正鵠をえていても、蛇は疑惑をかいくぐって再び脱皮するに違いない。
そうなれば、伊能正孝こそ「ヘビ」と唾棄されるだろう。
(やはり、こいつはヤマカガシのような蛇なんだ。凝固した血はどこかで解毒しなければならない)
この日のために、正孝はすべてを捨ててきた。
「先生、わたしは二人の女性のもとへあなたをお連れ致します」
失血し呼吸も途絶えた村上紀久子の足元へ、相次いで二つの痩躯が倒れ込んだ。
(おわり)
〈2016/05/12より再掲)
(当作品は全てフィクションです。一部地名等は配慮のうえ使用させていただきました。また、訂正加筆も致してあります)
拍手!
最後は復讐の様な形になりましたね。
金沢が最後の舞台。
長い小説でしたが、楽しめました。
自分でもこんな結末になるとは思っていなかったんですよ。
なんだか主人公の心情に引きずられたようです。
拍手をいただいてホッとしました。
主計町には申し訳ない結末になりました。
長い小説にお付き合いいただきありがとぅございました。
福田艶子を奪われた伊能正孝の復讐劇ということになりました。
初出とは違う描写を入れたので、最後はドキドキしました。
楽しめたと言っていただき感謝しています。
黒幕の追及が未だだったんですね、しかも殺人の所轄と詐欺の所轄が異なるため闇にそのまま葬られるところでした。
その後は、会社の解散、離婚と私の想像外の方向へどんどん進んで行きました!
そして最後は、大立ち回りの復讐劇となり、私の予想は見事に覆され、鮮やかな結末でした。
最後の最後まで、息もつかせぬスリリングなストーリーを楽しませていただきました。
ずっと艶子殺しの謎を追っているうちに主人公の怒りが収まらなくなってしっまたんですね。
会社の解散、妻への離縁と突き進んだ以上、伊能正孝の行き場はここしかなくなりました。
長いこと見守っていただきありがとぅございました。