(消臭効果)
加奈子は、中学二年生になった。
ある日、町の中心部にある浅間通りを歩いていたら、同級生の康夫から声をかけられた。
「おっ、おまえ昨日親父と一緒だったろう?」
「え、・・・・なんで?」
どうして、そのような詮索をするのかと、戸惑いを感じた。
加奈子は、父親とは気が合うたちで、病気がちの母親よりも何かと頼りにしていた。
康夫が見たというのは、会社から帰宅する父を駅まで迎えに行った帰り道にちがいない。
鞄を持つ反対側の腕にぶら下がるようにして歩いていたところを、康夫たちに目撃されたらしい。
「おまえ、いくつになったら乳離れするんだよ」
康夫は馬鹿にしたように薄笑いした。
「わたしのどこが、いけないのよ。お父さんを迎えに行って、何がおかしいの?」
加奈子は、康夫を睨みつけた。
「親父臭くないか。しょっちゅう傍にいると、臭いが移っちゃうぞ」
思いがけないことを言われて、加奈子はショックを受けた。
「ひどい」
康夫を非難してみたものの、投げつけられた言葉が気になってすっかり意気消沈してしまった。
それというのも、このごろテレビや雑誌で、やたらに「加齢臭」という言葉を取り上げ、話題にしていたからだ。
三十代の男性タレントが、女性アイドルから「くさい」といわれて立ち往生する場面が笑いを呼んでいた。
それらはウケ狙いのネタだったかもしれないが、加奈子の父の場合は実際に一つ上の世代だから神経質になった。
加奈子自身は、父親の匂いなど気にしたこともなかったが、康夫にからかわれて以来無意識のうちに父親と接するのを避けるようになった。
「加奈子、きょうは皆で万平台までテニスしに行こうか」
夏休みに入った最初の日曜日、父がとつぜん思いついたように言った。
「うわあ、素敵・・・・。でも、お母さんは?」
「もちろん、一緒だよ。加奈子が行くなら、お弁当作るってさ」
父は、うれしそうに娘の顔を見た。
最近なんとなく敬遠されているのを感じていたので、誘いの言葉にも躊躇するところがあった。
しかし、屈託のない加奈子の態度を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
これまでのことが思い過ごしだった気がして、失いかけていた自信を取り戻したのだった。
万平台テニスコートは、電車で十五分ほど行ったところの新興住宅地にあった。
私鉄沿線の自然林の中に造られた、夜間照明装置まで備えたスポーツ施設の一角にあった。
街は駅を中心に区画整理されていて、見るからに清潔そうな風貌を見せていた。
それだけに、味のある街になるにはまだ十年はかかりそうな雰囲気が感じられた。
加奈子の両親は、それまでのマンション暮らしから現在の一戸建てに移るとき、万平台の建売住宅も候補の一つに入れていた。
悩んだ末に外したのは、そこに住む住民の顔が見えない不安からだった。
ちょうど隣り合わせの県で、小学生の女子児童が帰宅途中に誘拐され、三日後に遺体で発見されるという事件があったばかりだった。
「どんな変質者が住んでいるかわからないし、これからも得体の知れない人が移ってくる可能性もあるのよ」
母はまず加奈子の身に危険があるかどうかを考えた。「・・・・わたしが、一日中付き添っているわけにはいかないもの」
結局、万平台より歴史があり、生活のネットワークが整っていた今の街を選んだのだった。
「新しい施設も魅力だが、万平台へは電車でだって来られるし・・・・」
父もすぐに、万平台の建売断念に賛成した。
(自然の中のテニスコートは、たまに行く方が新鮮だよ、きっと)
結局、現住地となった街が、通勤に便利な急行停車駅であったことも、住まいの選定に好影響を与えたのだった。
そうして実際に住んでみると、親子三人そろって現在の街に居心地の良さを感じた。
駅前の商店街も活気があったし、隣接するスーパーマーケットやホームセンターも、過度の競争を避けて共存していた。
昔からこの地にあった浅間神社を上手に生かした街づくりが、住民の共通意識を育んでいたのかもしれない。
富士塚を持つ都内の神社ほど有名ではないが、七五三の時期をはじめ近隣の人びとがよく訪れる場所だった。
加奈子一家が移り住んでから、祭りや行事の思い出とともに、今では心の街となっていた。
照れずに父親の腕にぶら下がれるおおらかさが、この街にはあったのである。
だが、父の知らない間に変化は起きていた。
万平台テニスコートへの誘いを加奈子が喜んだ背景に、康夫の目が届かない安心感があることなど、想像すらついていなかった。
「よし、それじゃあ出発だ」
一家三人、白いファミリーカーに乗り込んで、幸せ家族を演出しているような気分だった。
スポーツ施設へ着くと、早速予約しておいたコートに出た。
母ははにかみながらも、インストラクターの指導でボールを打ち始めた。
加奈子と父親は、隣のコートでラリーを続けた。
軌道の定まらない加奈子の球を、上級者の父が上手に返して加奈子の笑い声を引き出した。
カラフルなテニスウェアから覗く娘の脚を、父親は眩しそうにみつめた。
三十分の指導を受けた母親は、終わると早々に建物の中へ引き上げていった。
いくらか健康を取り戻してきた母だったが、長い間紫外線に曝されるのは避けなければならなかった。
「先に行くけど、あなたたちゆっくり楽しんでね」
婦人科系の疾患で、第二子以下を諦める結果となって、母が自分たちに気遣いをしているのを、加奈子は感じ取っていた。
「おかあさん、わたしも疲れたから、もうすぐ休憩にするわ」
気遣われると気持ちがぎごちなくなるので、加奈子は母の習い性をあまり好んでいなかった。
母が引き揚げて十分ほど経ったころ、ラリーが途切れたのを機に練習を中断した。
「よし、今日はここまで」
父がネットに近づいてきて、加奈子とハイタッチした。
手が挙がる瞬間、ペンギンマークの半袖シャツの腋から黒いものが見えた。
スローモーションのように、コマを引き伸ばして感覚する自分に気づいて、加奈子は目をそらした。
(なんでェ・・・・)
無意識のうちに、父の体臭を嗅ごうとしていたのだろうか。
風向きで、実際にモワーッと漂ってきたような気もする。
汗の臭いが、康夫のいう「親父臭さ」だとしたら理解できるが、世間でいう加齢臭に当たるのかどうか、加奈子には判断がつかなかった。
「おかあさんが待ってるから、わたし先に行く・・・・」
加奈子は、父の視線を背中に感じながら小走りに走った。
シャワーを浴びて着替えたあと、母の待つ軽食・喫茶コーナーで昼食を摂ることになった。
持参した手作り弁当は、加奈子の好きなホットドッグと唐揚げが用意されていた。
季節によっては、巻き寿司やサンドウィッチのこともあるが、この日のメニューは食中毒を警戒して揚げ物を主体にしたようだった。
加奈子は、旺盛な食欲を見せた。
席料代わりに注文したアイスティーとショートケーキも、加奈子の食欲に油を注いだ。
母は紅茶とチーズケーキ、父はコーヒーとモンブランを頼んだ。
誰の誕生日でもなかったが、幼稚園児のパーティーのような賑やかさが全員を幸せな気分にした。
その間、加奈子は、父の体臭を嗅ごうとした恥ずかしさを、無理やり意識の隅に押し込めようとしていた。
「せっかくここまで来たんだから、渓谷までドライブするか」
郊外を遡る小規模河川の奥に、意外に深い谷と崖がある。
先へ進むと、渓谷沿いに滝があり、麓の町には有名な寺社がいくつも祀られている。
徳川の支配地の外縁を固める結界の意味とも伝えられ、門前町には古くからの蕎麦屋や割烹料理店があり、銘菓や日本茶などの産物を商う店も数多くあった。
後部座席にちょこんと座った加奈子は、万平台での運動と食欲に疲れたのか、ドライブ中ずっと物思いに耽るように押し黙っていた。
(なにか気がかりなことがあるのかな?)
ときおりルームミラーで加奈子の様子を確かめながら、父親もまた黙ったまま運転を続けた。
直接声をかけるより、母親にそれとなく訊いてもらうのが最善だろう。
思い過ごしだったのだとほっとしたのも束の間、再び娘への気がかりが頭をもたげた。
加奈子だけでなく、母親の方にも疲れが見えたので、父は早々に引き返すべくUターンできるスペースを探し始めた。
ドライブから帰ると、翌日から父の通勤が始まった。
母がキッチンで発てる俎板の音を聞きながら、加奈子は二度目の眠りに落ちていった。
朝の九時ごろ階下に下りていくと、母は朝の連続テレビドラマを観ていて、ニヤニヤ顔の名残りが口の周りに残っていた。
「加奈子は寝坊すけねえ、シチュー温めるから、ちゃんと顔を洗って待ってなさい」
加奈子は、言われるまま洗面所に向かい、歯磨きと洗顔を済ませて食卓に戻った。
バターをたっぷりのせた厚切りトーストとクリームシチュー、それにトマトと胡瓜のグリーンサラダ、ボイルドエッグが用意されていた。
加奈子は、味の批評も言わずにもくもくと食べた。
寝起きでも食欲は衰えることがない。
冷蔵庫から牛乳を取り出して、コップになみなみと注いだ。
「別に体調が悪いわけではないのね?」
とつぜん母が声をかけた。
「えっ」
意表をつかれて、完全に目が覚めた。
「ドライブに連れ出したのが拙かったのかと、お父さんが気にしてたのよ。加奈子、急に黙ってしまったから心配らしいの。大丈夫よね・・・・」
またも母の気遣いかと思ったところへ、父の差し金で聞き質されたことがわかってショックを受けた。
「なんでもかんでも口を差し挟まないでよ。あたしだって、放っておいてもらいたいことがあるんだから」
「あら、ごめん。わたしが煩く言い過ぎるのね」
「お父さんも大嫌い!」
大声を出した途端に、涙があふれた。
怒りと悲しみが混じったしょっぱさが、喉の奥に流れ込んだ。
何でこんなことをするのだろうと訝りながら、加奈子はジャージーに着替えて家を飛び出した。
「散歩してくるから、心配しないで・・・・」
あらかじめ母を制しておく冷静さだけはあった。
小さなウェストポーチに、携帯電話と財布が入っていた。
駅前のスーパーマーケットの開店を待って、除菌消臭剤を購入した。
もらったばかりの小遣いを使うのは厭だったが、テレビで聞き慣れた商品名を目で探した。
(あった、あった)
結構な値段だったが、買わないと引っ込みがつかない気がした。
どうせ、後からレシートを見せて母に代金を請求するのだし・・・・。
浅間神社を掠めるY字路のあたりで母に電話した。
「わたし、いま帰る途中・・・・」
「ああ、よかった。胸がドキドキしてたの」
携帯電話をウェストポーチに仕舞いながら、やっぱり電話してよかったと思った。
「おかあさん、クルマの鍵ある?」
家に帰るなり、自動車キーを要求した。
「どうするの・・・・」
「これで除菌するの。掃除だけじゃ臭いが残るから、消臭にも効くこのスプレーを買ってきたの」
あたかも、昨日の不機嫌の原因が車内の臭いのせいであったかのように。
「そうかねえ、気がつかなかったけどねえ」
母は首をひねりながらも、加奈子についてきた。
ドアを開けるなり、加奈子は運転席のあたりをクンクンと嗅いで「ほら」と母を振り返った。
「お父さんの臭い、分かるでしょう?」
「そうかねえ」
半信半疑の面持ちで、運転席に身を入れる。
「除菌、除菌・・・・」
加奈子は再び母と入れ替わって、消臭剤を噴霧した。
人工的な匂いを含んだ霧状の微粒子が、跳ね返ってきて顔にかかる。
期待はずれの結果になることが瞬時にわかって、加奈子は悲しくなった。
「お父さんも大嫌い」と怒鳴ってしまった心の動きを、母は理解してくれるだろうか。
本当は同級生の康夫が悪いのに、父を悪者にしてしまった。
父の愛車、家族の思い出に消臭剤を撒いてしまったのだ。
加齢臭など感じたこともないのに、「除菌、除菌」と父を排除するような無謀な振る舞いをした。
父は、今晩か明朝にはクルマのドアを開け、すぐに気がつくはずだ。
母さえ口を滑らさなければ、真の理由は分からないかもしれないが・・・・。
父が好きなのに、誤解されるような態度をとった自分が悪いのだ。
一度踏み外した軌道には、なかなか戻れそうにない。
なんだか、少しずつ父との距離が広がっていきそうな予感がした。
(おわり)
ありきたりの住宅街、ありきたりの家族、ありきたりの日常生活、そんななかにあって中学生になった女の子の心が微妙に揺れている。
そこのところを優しく温かく見つめる作者の手腕。
軽そうで重みのある掌編ですね。
冒頭と終わりのほうに出てきた女の子のクラスメートの男子……。
何か意味を持たせているようで、あげくは何だったのか、解き明かしていないところが微妙ですね。
書き過ぎないところが窪庭式流儀のようにも感じます。
こんな小市民的な一面を描くところは、「さすが!」の一言に尽きます。
実生活だけでなく、物語の中でも、女の子を相手にするのは難しい。
うまく書けるように、繰り返しこうしたテーマに挑戦したいです。