遅く帰ってきた次女の七恵が、シャワーを浴びに入った風呂場でキャーっと声をあげた。
そろそろ寝ようかとソファーから立ちあがりかけていた正平は、何事かと身構えてドアの前に走り寄った。
「どうした、大丈夫か」
二年ほど前に起こった盗撮事件を思い起こしながら、娘に問いかけた。
あの時は、わずかに開いていた窓から小型カメラが差し込まれ、裸の写真を撮られたと大騒ぎになったのだ。
すぐに正平が裏手に回って、風呂場の周囲を確認したのだが、逃げ足が速いのかそれらしき痴漢の姿は発見できなかった。
「何があった? また覗きか・・・・」
前回は初めてのことだったので、110番通報までして近所まで巻き込む空騒ぎをしてしまった。
「そうじゃないの。・・・・ナメクジが這っていて気持ち悪い」
風呂場から出ることもできず、立ち往生しているらしかった。
「なんだ、そんなの悪さをしないからさっさとシャワーを浴びちまえ!」
「やだあ、後にする・・・・。お父さんは向こうへ行っていて」
どうやら、いったん中断して風呂場を出るつもりらしい。
厄介な奴だと呟きながら、正平は居間に戻った。
まもなくパジャマに着替えた七恵が顔を見せ、「お父さん、ナメクジ取ってよ」と当たり前のように言う。
「そんなの塩をかければいいんだから、自分でやれ」
口では強いことを言いながら、正平はテーブルの上の塩壺を掴んで浴室に入った。
濡れたタイルの壁に、ナメクジが張り付いていた。
なんとも形容しがたい形で、灰色のタイルに同化していた。
外部から入ってきたのは間違いないはずだ。
それなのに動きを止めているのは、七恵が大声を出したせいなのか。
正平はナメクジの意思を測るように息を詰め、塩壺からかなりの量の塩をつまみ出して振りかけた。
ナメクジは悶えるように身を縮め、たちまち輪郭を崩して風呂場の床に落ちた。
追い討ちをかけるように塩を振りかける。
すると溶け切った後の青光りだけを残して、命が消えた。
なんという奇態な物質なのだろう。
固体から粘液状の物体になり、やがてすべてが蒸発する。
青光りに見えたのは、粘液の跡が蛍光灯の明かりを受けて反応したせいだろうか。
ナメクジは、塩をかけると水分が外に出て小さくなるといわれるが、正平の見る限り固体であったものが完全に消滅している。
自分の行為に若干の後ろめたさがあるのは、晩年俳句づくりに熱中していた父親から「なめくじは月夜の晩に空を渡るんだよ」と教えられていたからか。
満月の光を受けて、幾筋もの雲が流れて行く光景を、昔の人はナメクジの形と重ね合わせたのだろうか。
梅雨明けのまだ湿った空気が残る空に、いかにも日本的な感性が投影されている気がして仕方がなかった。
そういえば、父は梅雨時の植木鉢に這い上がるナメクジを棒で削ぎ落とし、箒と塵取りで掻き集めて近くの草むらまで捨てに行っていた。
気が優しいとか、命に対する哀れみがあるとかいうのではなく、殺すより捨てるのが作業として一番手っ取り早かったのかもしれない。
後年になって、ナメクジはいったん消滅してもやがて再生すると聞いた。
どこか別の場所で、再び固体のナメクジに戻るという説があるのだ。
(ロマンだね・・・・)
話だけの世界でもいいから、夢に似たものを空中にふわふわと浮かべておきたい。
塩とナメクジとのギクシャクした関係からは、何も生まれてくるものがない。
正平は、目の前で溶けてなくなったナメクジの痕跡を掻き消すように、温水シャワーで丹念に洗い流した。
普段は思い出すこともなかった父親のことが、ナメクジをきっかけに甦った。
単に乾いた記憶としてではなく、じめっとした肌触りを思い起こさせるように生前の気配をともなっている。
しゃがみ込んで植木鉢のナメクジを弾き飛ばす父親の潜めた息遣いまでが、身近に感じられる。
(ああ、あの人と俺は血がつながっていたんだ・・・・)
特段の名誉も罰もなく逝った父親の存在が、懐かしく思い出されるのだった。
親子二代の勤め人として生きてきて、誇れる業績もなく今日に至っている自分を心のどこかで許している。
不如意な気持ちもなくはないが、まずまず平穏な家庭を維持してきたという安堵感が胸の内を満たしていた。
「おーい七恵、もういなくなったぞ」
正平はリビングルームにまで届く声で、娘の名を呼んだ。
妻の証言では、何カ月か前に恋人と別れたらしい。
テレビを観ながら無口になっていたり、化粧の仕方が濃くなったことなどで微妙にわかるのだという。
そういった事象に父親の出る幕はなく、おそるおそる見守るだけである。
「ナメクジ、排水管に流したの?」
浴室に戻ってきた娘の体温を避けながら、正平は開け放した引き戸の前ですれ違った。
思えば幼い頃から大人しかった長女に比べて、次女の七恵は落ち着きのない娘だった。
五歳の頃だったか、スーパーマーケットで走り回る七恵を強く叱ったことがある。
妻が長女をトイレに連れて行っている隙に、食器売り場からスプーンセットを持ちだして逃げ回ったのだ。
追いかけた正平は、ついに捕まえたとき「お父さんの言うことを聞かないなら、どこかへ捨てちゃうぞ」と脅した。
年甲斐もなく興奮していたらしく、自分の言葉の勢いのままに七恵の身体を抱えあげて、店舗の外まで走り出た。
「いやー、いやー」
泣き叫ぶ子供を、二度三度と放りだす真似をした末に、やっと店内に戻ったのだった。
「あなた、何してたの?」
妻に咎められて、正平は我に還った。
「ちっちゃな子が、その程度の悪戯をしたからって、捨てちゃうなんて脅かすのはどうかしてるわよ」
もちろん本気ではなかったにしても、大人げない行為をしてしまった後悔が、正平の胸にトゲとなって残ったのだった。
次女の七恵ががニューヨークの大学に留学したいと言いだしたのは、それから間もなくのことだった。
うすうす娘の願望は聞いていたが、切りだされたとき正平は即座に反対した。
すでに国内の短大を卒業して勤めはじめたのに、何を今さらと娘のわがままをたしなめた。
家の役に立てとは言わないが、将来に備えて自立してもらいたかった。
あるいは長女のように、さっさと結婚して安定した家庭を築いてもらいたかった。
七恵がアメリカで何年かを過ごすとすれば、正平夫婦の老後資金は当然削られる。
「無理だよ・・・・。俺たちだっていつ病気をしないとも限らないからな」
正当な説明をすれば諦めてくれるかもしれないと期待したのだが、欲望に火がついた娘はますます強硬になった。
「お父さん、わたしが小さい頃、無理やり抱えて畑へ捨てようとしたでしょう?」
突然、正平の苦手とする記憶を引き出してきた。
正平は、たちまち言葉に詰まった。
そのくせ、脳天ではまったく別の思考が動いている。
(スーパーマーケットの敷地に隣接していたのは、畑だったのか・・・・)
いまさら知った事実に愕然とした。
あの時は、周囲の状況が目に入らぬほど興奮していたようだ。
正平は、あらためて自分の狭小な性格を嫌悪した。
カウンターパンチを食ったボクサーのように、その場で膝を突いていた。
語学をマスターし、国際的な金融の勉強がしたいと主張する七恵を、正平は押しとどめることができなかった。
秋晴れの日、ニューヨークへ旅立つ七恵を妻と二人で成田まで送った。
自家用車のトランクから大きなスーツケースを下ろしてやると、七恵は眩しそうに正平の顔を見た。
「お父さん、悪いわね」
送らせたことを言っているのか、それとも父の弱みを衝いて思いを遂げたことを言っているのか。
もう一つの旅行鞄を左手に提げたまま、右手で重いスーツケースを引く。
ゴロゴロと音を立てながら、空港待合室に向かって去って行く娘と妻の後ろ姿を、正平は複雑な気分で見送った。
未知の世界に飛び込んでいく娘を誇らしく思う反面、これから先の展開に不安が残った。
「最初は世話になるけど、わたしもバイトで稼ぐから心配しないで・・・・」
簡単にいうが、アメリカはそれほど甘い国ではない。
しかし、考えてみれば、正平の思っている以上に七恵は強かさを備えているのかもしれない。
安物のスプーンセットとアメリカ留学をあっさり交換して見せる腕前を、他人相手でも発揮してもらいたかった。
正平は、乗降場所から数メートル移動したクルマ寄せで妻が戻るのを待った。
そのうち警備員が注意しに来るだろう。
落ち着かない気分で、一時間近く待った。
七恵はもう親元を離れて、別世界へのゲートをくぐったころだ。
まもなく機中に収まり、運行表に従って空を渡ることになる。
妻が戻ってきたら、飛行機の見える場所に移動するつもりだった。
家族が一人欠けると、なんだか今まで坐っていた場所がそぐわないものに感じられる。
それでなくとも確固たるものがなかった正平の居場所が、いっそうあやふやになった気がする。
あとは時間が隙間を埋めてくれるだろう。
不在になった娘が遺していったのは、二十数年にまたがる記憶の断片と青光りする感情の痕跡であった。
(おわり)
ナメクジの持つ象徴的な意味もご理解いただき、ありがとうございます。
うれしい評価をいただき、心から感謝申し上げます。
作者はその辺の両者の心理描写を掘り下げてはおりませんが、読む側としては、なんとなく胸苦しくなってきます。
それが急転直下、アメリカへ留学のため旅立っていく。
「ナメクジ騒ぎ」と「渡米」とは、ひとつも結びつかないようですが、一面、さもありなんとも思わせます。
その辺の経緯や心理につていは、くだくだと説かないところがまた、作者の腕前でしょう。
読者に余韻を残すような、見事な物語展開と言えましょう。