ムード歌謡の名曲『中の島ブルース』をFBにシェアしてくれた友人が、この曲には外国のファンからたくさんのコメントが寄せられていることを教えてくれた。
ご当地ソングの一種と思われるこの歌が日本人に好まれるのはわかるが、なぜ外国人が何百人もコメントしたり<いいね>を押したりするのだろうかと疑問に思った。
友人がアップしてくれたのは「秋葉豊とアローナイツ」の『中の島ブルース』である。テレビの歌謡番組で聞いたことのある「内山田洋とクールファイブ」ではなかったので、期待が膨らんだ。
調べてみると、この曲は「秋葉豊とアローナイツ」と「内山田洋とクールファイブ」の競作で、1975年に発売された年度のシングル売り上げは、知名度の高い内山田洋とクールファイブに軍配が上がったらしい。
それでも、友人は札幌に拠点のある秋葉豊とアローナイツの方を取り上げたわけで、それは前述のとおり外国人のコメントの動向に注目したからだと考えられる。
もちらん、彼が北海道出身で秋葉豊とアローナイツにシンパシーを感じていたと言えなくはないが、コメントへの興味がなければわざわざ40年以上前の演歌をシェアすることはなかったに違いない。
外国人の胸に響いた? なぜだろう?
これを①の疑問としておく。
興味津々で聴いてみると、確かにわれわれ日本人を陶酔させるリズムとメロデイで構成されていて、身体の深部にまで心地よく吸収される。
友人は、こうも付け加えた。「秋葉さんは40代という若さで亡くなったので、別のリードボーカルを据えてアローナイツを存続させたらしいよ。」
そういわれて『中の島ブルース』のレーベルを見ると、曲名の上に秋葉豊の名前が出てくるが、投稿者の表示には唄・木下あきらと書かれている。
そうか、そうすると歌声は木下あきらだがグルーップ名は以前のまま残したんだなと理解できた。
*参考までに木下あきら版・秋葉豊とアローナイツの『中の島ブルース』のURLを記しておく。(https://www.youtube.com/watch?
v=ebuNCczjyHo&feature=share)
さて、そうなると秋葉豊さんが歌ったアローナイツの曲も聴きたい。
ぼくの要望にこたえて、友人は『あきらめないで』をアップしてくれた。
こちらは明らかに秋葉豊さんと思われる男性が歌っていて、背景にはレコーディングのための音響機器が写っている。
あとで触れるが、札幌でクラブ歌手(すすきのニュークラブ「CLUB ARROW(クラブ アロー)となり、自主制作したレコードが有線放送で評判になったころの秋葉豊が歌う数少ない映像の一つではないかと思われる。
秋葉さんもバックコーラスの男たちも若々しく、実にフレンドリーな場面が残っている。
*再び参考のためURLを載せておく。(https://www.youtube.com/watch?v=eSBfXP4Jx_o)
秋葉豊さんのことを知りたい。
ぼくの中で、抑えきれない衝動が突き上げた。
木下あきらさんの巧みな歌いまわしは圧巻だが、アローナイツ創設メンバーの秋葉さんの歌声にも何か土地に根ざした強さと脆さが内在している。
経歴を調べてみると、なんと歌志内炭鉱の職場内で結成されたアマチュアバンドだったのだ。その活動が注目されて札幌の超一流クラブで歌うようになったのだが、『中の島ブルース』は間もなく彼らの運命を切り開く魔法の杖となった。
まずは秋葉豊の経歴を引用しておく。
生年月日 1945年(昭和20年)12月25日
出 身 歌志内市
学 歴 住友鉱高卒
経 歴 住友歌志内炭鉱勤務の傍ら、アローナイツを結成。札幌でクラブ歌手をつとめたのち、1973年(昭和48年)『中の島ブルース』(作詞・須田かつひろ 作曲・吉田佐 編曲・川上英一)を秋葉豊とシャネル・フォー名義で自主制作。これが有線放送を通じて全国的にヒットし、1975年(昭和50年)には歌詞を斎藤保が補作し、吉田佐の曲を竜崎孝路が編曲してワーナーパイオニアからメジャーデビューすることになった。
秋葉豊30歳の時で、いちばん脂が乗り切っていた時期である。
受 賞 日本演歌大賞(第2回演歌スター賞)
日本ゴールドディスク賞(昭和63年度 第3回ベストアルバム賞)
没 年 1990年(平成2年)7月
YouTubeに投稿される『中の島ブルース』は、主に三つのグループ(秋葉豊とアローナイツ、木下あきらとアローナイツ、内山田洋とクール・ファイブ)が混在し、唄声をよく聴かないと、とんだ間違いを起こすことになる。
前川清の声は誰でもわかるが、秋葉豊と木下あきらの歌声は似ているところがあってわかりづらい。おまけにレーベルが「秋葉豊とアローナイツ」のままだから、秋葉さんの画像を木下さんと思い込んでしまう間違いが多々見受けられる。
友人によれば、そもそも木下さんが秋葉さんの歌い方に似せたのではないかという。
とすると、秋葉豊とアローナイツの看板をそのまま温存して人気が落ちないように、当初木下あきらさんに秋葉さんの影武者を頼んだのではないかという説も出てくる。
しかし、他のアローナイツの楽曲を聴き進むと、ほとんどが木下あきらさんの歌声であることに気づかされる。声に幅があり、奥深くに届く響きは、少しずつ本領を発揮しているなと感じさせる。もはや、秋葉さんの代役である役目を終えたのだろうと推察できる。
誰が聞いても木下あきらの声と歌い方とわかったころから、レーベルにも木下さんの顔が登場し、旧メンバーのバックコーラスを従えて熱唱する画像が見られるようになった。テレビ出演のほか、クラブのステージやディナーショーで歌う映像がYouTubeに挙げられている。これは楽しい。
現在までにリリースされた曲は、A面B面あわせてざっと100曲を超えているのではないか。
最近は木下さんが単独で歌う曲もあり、アローナイツ旧メンバーの顔触れがどうなったかも知りたいところである。
秋葉豊さんの代わりに木下あきらさんがボーカルを務め、バックコーラスに山本厚、升沢義男、後藤直樹、小笠原有次郎さんらが独特の雰囲気を醸し出していたころが懐かしい。
いつまでもこのままのアローナイツを観たいと思うのは、無理なのだろうか。
ところで、木下あきらさんはどのような経緯でアローナイツと結びついたのだろうか。これが疑問の②である。
まずは、木下あきらさんの経歴を探してみた。しかし、ぼくの力ではなかなか見つからない。かろうじて見つけたのは、アメーバブログに残っていた2011年の記事のみである。
*参考 木下あきらブログより オペラ 2011-02-17 14:07:52 テーマ:ブログ 2010年の舞台はオペラで締めくくりましたが、2011年の舞台の幕開けもまたオペラです! NHKホールにてロシアのマリンスキーオペラに出ます~ マリンスキーバレエの方々と面白い踊りをしてます(笑) 明日から日曜日まで裸で踊ってきまからす! あらたに 2011-10-29 03:49:57 テーマ:ブログ 人生の出発! 以上が木下あきらさんのブログに載っていた重要な意味を持つ2011.2.17の記事と2011.10.29の書き込みである。 <あらたに>では、人生の出発!と簡潔に記し、以降の記事はない。 |
これでは手掛かりがなさそうだが、<オペラ>の投稿から8か月の間に、何か大きな人生の転機があったことがうかがえる。 それがアローナイツへの正式参加の決断時期ではなかったのか。 もしかしたら的外れの思い込みかもしれないが、ぼくの貧しい想像力はどうしてもそこへ向かうのである。 秋葉豊さんの没年が1990年と判明したわけで、2011年の<人生の出発!>までには21年のタイムラグがある。この間、木下あきらさんはオペラの修行に励んでいたことが明らかだし、NHKホールでロシアのマリンスキーバレエ団とも共演している。 この状態で、ほんとうにアローナイツのリードボーカルがこなせるのか。もしや同姓同名のオペラ歌手がいて、ぼくが勝手に勘違いしているのではないか。 しかし、このブログをフォローしている方のコメントに、アローナイツの木下あきらさんで間違いないと思わせる記述があるので、信じてもいいのではないだろうか。 ブログのタイトル<人生の出発!>に、吹っ切れた簡潔さを感じるのはぼくの思い込みだけではない。 後戻りになるが、アローナイツの結成時メンバーの欄に木下あきら(赤平出身)とある。生年月日は1948年9月8日と記され、1945年生まれの秋葉豊さんより3歳後輩になる。グループの他の3人も1948年生まれとあるから、もしかしたらアローナイツの創立メンバーだった可能性は否定できなくなった。 しかも、秋葉さんがボーカル担当であるのは当然として、木下さんもボーカルと記されている。これはどうしたことか。もしも結成時メンバーというくくりに誤りがなければ、ボーカルが2人いたことになる。 ここからはぼくの想像になる。先輩でリーダーの秋葉豊とアローナイツを看板にして活動していくとすれば、木下あきらの居場所がないではないか。先輩を立てるためには、自分は別の道を探ろうと考えても不思議はない。当時から歌がうまく、才能があると自覚していたとすれば、木下さんが舞台やオペラの世界へ挑戦していったという想像が現実味を帯びてくる。 だけど、これ以上の後付けはできない。すべてタラレバの話である。 ついでに、疑問①の答えだが、木下あきらさんがオペラ歌手として活動していた関係で、われわれの知らなかったファンが多いのではないか。演歌を歌うようになってオペラ以上に心に迫る情感を感じたのではないか。外国人のコメントに、胸に響くという表現があったのは確かだから。 さらに、疑問②の答え。 これも想像だが、1990年に秋葉豊さんが亡くなった時、結成メンバーの一人である木下あきらさんにも知らせが行ったはずだ。木下さんもあわてたに違いない。 狼狽するアローナイツのメンバーやレコード会社に、誰かが木下あきらさんをリードボーカルにしてアローナイツを存続させるアイデアを出した。 オペラ歌手としての大成を夢見ていた木下さんは、オペラの世界をあきらめるわけにはいかない。しかし、木下あきらの名前を伏せてレコーディングをするのはやぶさかではない。実入りもいいだろうし、稼いだ金で舞台やオペラの稽古も続けられる。そういう環境を引きづって「秋葉豊とアローナイツ」の隠れ蓑を着てきた可能性が感じられる。1990年代~2010年代のレーベルは、まだ秋葉豊とアローナイツのグループ名が使われていて、木下あきらの歌声にもかかわらず明記していない。 歌謡界で木下あきらの名が有名になり、熱狂的なファンが増え続けたため、ついに年貢を納めたのではないかとも思われるのだが・・・・。 強引すぎるかなあ。あまりぼろを出さないうちに終わりにしよう。 もし、アローナイツの当事者あるいはアローナイツ周辺の事情に詳しい方がいたら、この大バカ者を笑って許してほしい。なんせ、ぼくは虚構を何よりも好む者だから・・・・。 (おわり) |
実はこのコメントは書きかけの途中でどういうわけか何度も消えてしまい、最初から書き直すということを繰り返しました。
私のパソコンの不調なのかもしれません。
また消えるといけないので、ここらで一度投稿しておきます。
話しの本題は電話で詳しく申し上げます。
木下あきらさんについて調べ、あるいは直接お会いになって取材をなさり、いつか小説として秋庭豊と木下あきらの関係性(個人の名前と匿名性)をテーマに1作お書きになられては如何でしょうか?
とても現代的なテーマではないかと存じますが・・・・如何?
手がかりが少なく、確証のない進行になってしまいました。
収穫はたくさん演歌を聴けたこと。
北海道と九州は芸能人を数多く輩出しており、ともに土地にエネルギーがみなぎっているような気がいたしました。
根拠は特徴的な福耳です。
人の耳のカタチは一生あまり変わらないと言われ、似顔絵や手配書などでは重要視されるのですが、年取って肥ってからの木下さんの耳はあの録音中の若い男性歌手の耳と似ているような気がするのですが如何でしょうか?
ただ、歌い方と声が若い時とかなり異なるので、少し気になりますが。
しかしそれも、窪庭さんが発見して下さったように『オペラの訓練で本格的な発声法を身に着けた』から変わったと考えると、納得できないこともないような気がします。
どうでしょうか?
たしかに福耳ですね。まいりました。この人、初めから木下あきらさんだった?
そういう目で見ると、混乱するばかり。
ただ、「中の島ブルース」の木下あきらのステージをじっくり眺めると、左右の耳とも雄大な弓のように肉厚で、録音機器の前の秋葉豊(?)さんの中が少し盛り上がった感じの耳と異なるようにも見えるのですが・・・・。
耳も声も体格も、二人をモンタージュしてみると<同一人>になってしまいそうな惧れもあります。
いずれにせよ、福耳の発見・着目は素晴らしい執念。なぞは深まるばかりですね。
ありがとうございました。
そのブログの人は生活イメージが、アローナイツの木下さんとはあまりにもかけ離れすぎているように思います。踊りのことはよく出てきますが、音楽についてはかけらも出てきませんし・・・
木下あきらさんはいま東京・板橋の音楽事務所に所属しておれれるようです。そこでも別格の存在と見ました。
もう少し突っ込んでみます。
『北村音楽事務所』です。
「木下あきら アローナイツ 三の宮ブルース」 で検索。
顔だけではなく声も、少し変わりかけているように思いますが、如何でしょうか?
これで納得です。ありがとうございました。
木下あきらさんは、昭和50年から毎年コンスタントにレコードを出し、さまざまな歌手活動をしているようで、オペラなどとは全く関係ありませんね。大チョンボでした。
ただ、依然として秋葉豊さんの存在がどのようなものだったのか、不明なところが多すぎます。
たぶん、あのレコーデイング風景に参加しているもう一人の白ネクタイの方との推理が当たっている気がしますが、履歴が乏しすぎますね。
いずれにせよ、ここまでの捜索ご苦労様でした。
脱帽です。
木下あきらさんを支えてきた奥様は2018年8月に亡くなったということですが、その奥様にささげた歌でーーたぶん木下さんが敬愛する杉本さんに頼んで書いていただいた曲と思われます。
木下さんが「もう歌手をやめる」と告げたとき、歌の才能を惜しむ奥様が強く反対した様子がうかがえる名曲です。
ユーチューブで聴けます。