このベンチに腰を下ろすと、自分の居場所に戻ってきたように、ほっとする。 目の前には作り付けのテーブルがあり、四枚の板を並べた粗削りの設置物は、雨風に曝されて灰色に変色していた。
木目だけが磨いたように浮き上がり、ほかの部分はわずかだが侵食されている。数馬は、この木の手触りが大好きだ。ベンチに浅く尻をのせて、板に頬を付けるように身を乗り出す。
テーブルの幅は、彼の左右の腕を伸ばしても三十センチは余る。どうしても届かない端までの距離が、未知の夢を盛ることの出来る自由な皿のように思える。
書斎にある机は、もともと小ぶりなうえに、辞書や万年筆や原稿用紙に占領されて、さらに狭くなっている。
志と違って、ちんまりとしたものしか書けないのは、そのせいもあるのかなと、半ば揶揄し自嘲しながら、テーブルに伏せた体を起こす。
数馬はあらためて木肌を撫で回す。
ここに憩ったたくさんの人が、みんなで滑らかにした板彫りの星座だ。いやいや、これは銀河系の果てからやってきた彗星の軌道のようだ・・と、大きな楕円を描いて幾重にも線条を重ねる木目に目を細める。
いつか日の高いうちにやってきて、少年少女向けの冒険小説でも書いてみようかなどと、野望の高ぶりを感じたりする。実行する日がくるかどうかは別にして、この場所に腰を据えてめぐらす思いの楽しさは格別だった。
視界の端に、犬と戯れる少女の姿が映っていた。
少女というには幼さが残っていて、疾走する白色のコリーに追いつけず、芝生に倒れては、駄々をこねるように甲高い声で犬の名を呼ぶ。
「リリー、リリー」
呼ばれるたびに、犬は戻ってきて少女を覘き込むが、甘えた心を見透かしたように再び走り出す。
風になびく犬の尾と少女の髪。風をはらんだ花柄のスカートが、ひらひらと舞って光をはじく。
数馬は、いつの間にか遠くを見る目つきになっていた。
犬と戯れる少女に、一人娘の姿を重ねていた。
美雪と名付けた幼子は、あまり丈夫な子ではなかった。癇症で、夜泣きがやまず、赤子を抱いた数馬が夜の街をほっつき歩いたこともある。
発熱のすえ、急にひきつけを起こして白目をむいたこともある。あの時は生きた心地がしなかったと、いまでも心臓の高鳴りを覚える。
近くの開業医に走って行き、ぴったりと閉じられたガラス戸を叩き続けた。腕の中の赤子は体をつっぱったままで、もうこのまま死んでしまうのではないかと恐怖の渦に叩き込まれていた。
退院して静養中の淑子も、数馬のあとを追って走ってきた。産後の妻の体に、どれほどの負担がかかったかと、二重の不安で足下から崩れそうになっていた。
なんとか立っていられたのは、なかなか起きてこない医師への渾身の呼びかけが続いていたからだ。真っ暗な診察室の奥に向かって、痛切な祈りが迸る。
「センセイ、センセイ!」
数馬の声に重なるように、「ミユキ、しっかりして!」と、タオルケットにくるまれた赤子を揺さぶる妻の絶叫が沸き起こる。
ようやく明かりが点いて、初老の医師の顔が見えたとき、地獄で仏のことわざが掛け値なしで信じられた。
「おとうさん、そんなに慌てたら、かえって容態をわるくしますよ」
叱られることで、彼の呼吸が少し楽になった。
座薬では治まらず、小さい体に注射をされて、やっと硬直が緩んだ。黒目が戻って、弱々しいながらも泣き声をあげた吾が子を見下ろし、数馬は目の前の医師と、見ることは出来ない頭上の神様に感謝の言葉をつぶやいた。
「ふつうは、二三分すれば治まるんですがねえ・・」
再び痙攣を起こすようであれば、一度大きな病院で検査をしたほうがいいと、医師は静かな声でアドバイスをくれた。
「わかりました」
数馬は、次に起こる出来事に対し、強い気持ちで身構えた。
涙ぐむ妻の背中に手を置き、これから先また今と同じように、力を合わせて運命に立ち向かっていける自信のようなものが芽生えたのを感じ取っていた。
(続く)
「悪童狩り」の主人公今のところ静かに見えながら、生活の中でじわじわと怒りのエネルギーを凝縮していくようで、なんかわくわくしますね。
いつどんな形で堰が切れ噴出するのか、何が起こるのか、楽しみです。
2日おきのペースもとてもいいです。
こういう上質な小説が、ブログで無料で読めるなんて贅沢です。
いつも有難う。
これからも期待しています。