美雪が熱を出すたびにハラハラしたが、再びひきつけを起こすことはなかった。やはり幼児期特有の熱性痙攣だったのだろうと、小学校に通い始めた娘を見送りながら安堵したのを覚えている。
それでも、子供ひとりを育てるのは大変なことだった。ひとりっこだから、余計に苦労が多かったということもできる。
中学受験のころから過保護への反発が始まり、入学してからはクルマでの送り迎えを嫌がるようになった。それでもなお事故や事件を恐れて口うるさく干渉する妻は、娘との諍いのさなかに怒りの矛先を数馬に向け、
「あなたが甘いから、親の言うことを聞かないのよ。何かが起こってからでは、取り返しがつかないでしょう。しっかり言ってちょうだい」
数馬は、淑子の心配を噛み砕いて伝えながら、それでも束縛される美雪に少なからず同情した。
だが、結果として妻は正しかった。
私立中学校からの帰り道、最寄りの駅から連絡してきた帰宅時間が三十分遅れたとき、淑子は数馬を駆り立てて私鉄の駅へ急がせた。いつも広場の隅でたむろする不良高校生を警戒していたが、この日妻が胸騒ぎを感じて直行した場所で、美雪はほんとうに絡まれていたのだ。
「ミユキ! 何してるの」
淑子は、助手席から飛び降りるようにして、輪の中でうなだれる娘に駆け寄った。
「おまえら、何をしてるんだ!」
激しい口調で詰め寄る数馬にたじろいで、高校生が退いた。学生服のボタンを外し、だぶだぶのズボンに両手を突っ込んだ、絵に描いたような不良三人組だった。
「何だよ、学園祭に誘ってただけじゃないかよ」
ぼそぼそと言い訳しながら、顔は横を向いている。その目に、何事かと注視する通行人の姿が映ったのか、
「おい、やってらんねえよ。行こうぜ」
肩を揺すりながら、駅舎のほうに引き上げていった。
美雪は、恥ずかしいと涙目を上げて母親を非難したが、内心ほっとしていたのかもしれない。
(よくもまあ、無事に育って、子供を産むまでになったものだ)
夫の転勤地である仙台についていって、逞しく出産をやり遂げた娘に、数馬はおどろきさえ感じていた。
やや陽光の衰えはじめた空をよぎって、フリスビーが飛んだ。
着地寸前のプラスチック円盤を黒のラブラドールが捕らえた。そう見えた瞬間、口元から物体が転げ落ち、飼い主の若い男女が手を打ってはやし立てた。
犬は恨めしげに主人を見やり、くわえ直して駆け戻った。ワンと鳴いたのは、つぎの試技をねだっての催促だ。
軽くスナップを利かせて放たれた円盤を、今度は軌道を読んで先回りした黒犬がジャンプして口にくわえた。ゴールを決めたサッカー選手のように、走り回ってアピールしようとする犬の出鼻を、若い主人が制した。
「よし、来い」
遊びの中にも、節度ある訓練の意図が感じられて、年齢にかかわらず、社会的責任を持った者の柔軟さに一目置く気持ちになっていた。
度し難いのは、二十歳以下の若者だ。
歩道を突っ走ってくる自転車をよけてやっても、頭を下げるでもない。中学生も高校生も、男女を問わずあたり前のように通り抜けていく。
電車の中でも同様で、運動部の一団が大きなスポーツバッグを足下に置いて、わがもの顔に座席一列を占領しているのに出くわしたこともある。
高校の教師は、どんな教育をしているのだろう。そのとき、数馬は暗澹たる思いで、股を広げる集団を眺めた。
(この国は、この先どうなってしまうのだろう)
多くの大人が嘆くのは、無理もないことなのだ。
だが、止むに止まれず行動を起こした正義漢が、どれだけ犠牲を払ってきたか。そのことも無視することは出来ない。うかつに注意も出来ないのが現状だ。
居心地の悪い世の中にした一番の原因は、為政者にあると数馬は思っているが、だからといって本さえ読まず、知性をまるまる放棄したような若者たちの生き方に、同調する気はまったくない。
駄目な大人がいたら、それを乗り越えて進んだのが<歴史>ではないか。
数馬の頭の中は、溜め込んだ怒りで熱を帯びたようになっていた。
(続く)
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